箱庭遊びとしての音楽シーン

まずはこちら「音楽主義 56号」の24ページをご覧ください。

(2012年 JOYSOUND カラオケリクエスト世代別TOP20)

これを見て、生演奏中心の活動をするアマチュア/インディミュージシャン、およびそのファンはどう思うでしょうか。

10代ではボカロ名義が10曲、ボカロがクレジットされてないボカロPの曲を含むと14曲 (20曲中)
20代では同8曲/11曲
30代では同3曲/4曲
40代では1曲

よほど捻くれた神経の持ち主でない限り、日本におけるポップミュージックの中心は既にボカロであると認めざるを得ないと思います。
それは言い過ぎと思われるでしょうか? では10年後を想像してみてください。この10代が20代に、20代が30代になった未来です。そこではもはや、ボカロ曲が「世代の音楽」として認知されているに違いありません。
もちろん更なる新しいムーブメントが起こっている可能性も大いにありますが、「10年後の最先端」をここで論じても仕方ないので考えないこととします。

また20代と30代を境目にして、各世代に対するボカロ曲の浸透率が大きく変わることも分かりますが、これは音楽文化の流れがどうこうというより、単純に歳をとるほど「新しい文化」へコミットする上での心理的ハードルが高くなることが主要因と思います。
僕が子供のころ、世代間の断絶を表現する言葉として、若い世代を「新人類」と呼ぶことがありました。しかしその新人類なる世代が上記のランキングでは既に旧人類であることが示されています。
自戒を込めてですが、年寄りに若者の発想が分からないのはいつの時代でも不変の事実です。

一方で世代を問わず、生演奏主体のミュージシャン界隈からは「ボカロは歌じゃない」との批判は根強いし、そう言いたい気持ちは僕にも分からないではありません。しかしVOCALOIDは単純にテクノロジーなのだから、今後どんどん進化して生歌のニュアンスに近づいていくに決まっている(逆にあえて機械っぽさを残す方向へ進化する可能性もあるが、技術的に生歌へ近づける努力がなされないとは到底考えられない)のです。

翻って80年代までは「シンセサイザーは楽器じゃない」との批判が多数あったものですが、現代においてそんな批判はバカバカしいほどに的外れです。
よしんば狭義において楽器ではないと認めるにしても、音楽を作成/演奏するにあたって「楽器として扱う」ことに異論ある人はまずいないはずです。
するとボカロ音源が、歌そのものにはなり得ないとしても「歌として扱われ」るようになるのは時間の問題と考えるべきですし、既にそれは始まっていると言うべきでしょう。
でなければ「ボカロ曲がカラオケで消費される」ことがそもそも不可能であるからです。

さてボカロ文化がいかにしてシーンを席巻するに至ったかについての詳細はここでは割愛しますが、ニコニコ動画を中心とした箱庭的世界観で育ったボカロがいつの間にかメインストリームに近いものと化し、逆にかつてメインストリームに近かったバンド生演奏の文化が、いまやライブハウスを中心とした箱庭遊びと化しているのは皮肉としか言いようがありません。

これを単にシーンの新陳代謝と捉えるのは簡単でしょう。しかし一方でボカロ曲(やアニソン)をバンド生演奏するイベントがクラブやライブハウスで行われることも多いという事実は、歌に至るまで打ち込みで作られたボカロ曲でさえ、それを生演奏することへの欲求を否定できなかったと捉えることもできます。

いったん話は逸れますが、音源が配信メインになっていくのに併せてライブ動員/売上が毎年のように史上最高を更新する欧米と違い、日本では大型フェスとアイドルのコンサート、および10~20年選手の大御所を除き、ライブ動員はなかなか増えていません。そしてそれが日本の音楽業界の抱えている危機の本質です。音源が売れなくても、それを聴いたファンがライブショウに足を運べば充分ペイできるはずなのに、現実にはそうならないことが問題なのです。

ここには「音楽の生演奏」がどの程度身近であるか、という日常における音楽との関わり方において根本的な差があるようなのですが、そのことが生む歪みこそ日本の音楽シーンが昔からずっと解決できずにいる病巣であると僕は考えています。
例えばロックインジャパンフェスが毎年3万人動員しているのに対し、手近なライブハウスに足を運ぶとフロアには出演者を含めて20人程度、というのはありふれた光景です。

フェスに毎年行くのにライブハウスには行かない人たち、彼らは普段、音楽とどう付き合っているのでしょう? もちろんその層にとってフェスはただのレジャー、海に行ったり花火を観たりと同様のものであるという解釈は理解できます。しかしそこに希望があるとは思えません。
彼らが消費するのはフェスという体験であり、楽曲はむしろBGMでしかないからです(もちろんその楽しみ方自体を否定はしません)。音楽文化を消費/醸成するという意味で、僕の目にはボカロ曲を生演奏する層のほうによほど希望を感じます。

ここで再び冒頭の件に帰ってきます。カラオケという形ですが、日常の中でボカロ曲を「音楽」として消費しているのが現在の10~20代です。
カラオケもまた楽曲そのものを体験として消費するものではないのでは?と思われるかもしれません。それは確かにそうなのですが、わざわざカラオケに行って歌うからには、バックボーンとしてその曲をそれなりに好きで聴きこんでいる必要があります。
すなわち現在の10~20代は、ボカロ曲を、少なくともある程度は、きちんと楽曲として、音楽として消費していることになります。そしてそれをバンド(あるいは歌ってみた/弾いてみた動画)で生演奏する層も少なからずいるわけです。

オチが見えてる感もありますが一応続きます。

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箱庭遊びとしての音楽シーン」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: 「歌う」ということ(2) | ロックンロール哲学者のブログ

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