個性にまつわるあれこれ

唐突ですが僕は、生まれ持っての個性というものをほとんど信用していません。

それが存在しないとまで言うつもりはありませんが、表現活動においていわゆる個性と呼ばれるものがプラスに働くことはごく稀だという印象なのです。また個性というものについて、世間一般で言われる解釈についても多いに疑問があります。

まず基本的に僕は「他人が持っていないものを出す」「他人がやっていないことをやる」というのが個性の表現であるとは思いません。何故ならそれらは「他人が知らなかったことを知っている」「他人が避けてきたことをやる」がほとんどで、たいていの場合は単に勉強量の問題であったり、モラルハザードを起こすことによる話題作りに過ぎないからです。

そもそも似たような環境に生まれ、同じ音楽や漫画やドラマを鑑賞し同じ内容の勉強をして同じ遊びをし同じサービスでコミュニケーションを取り同調圧力の中で育ちながら、いざ表現の場に立った時に突然「もっと自分ならではのものを出せ!」と言われても無理があると思います。

さらに根本的な障害があります。もしその表現が本当に他の誰も持っていない100%オリジナルだとするなら、そこには表現者と鑑賞者に共通のバックグラウンドが全く存在しないことになります。存在するならそれは共通のものから(無意識的であっても)影響を受けている以上、既に100%のオリジナルとは呼べないからです。
例えば宇宙人が一人あなたの前にやってきて彼にとっての芸術作品を表現したとしましょう。もちろん言語を含め一切コミュニケーションの手段は存在しません。すると当然、あなたにとっては表現の良し悪しどころか、まずそれが作品であることすら判断のしようがないわけです。
それでもなお好悪の感情を抱くことは出来るかもしれませんが、一切の文脈やバックグラウンドを抜きにプリミティブな好悪のみで判断するのが作品評価のスタンダードであるとするならば、そもそも作品に個性の有無を問うことが不当であるし、また評論家などという職業が成立するはずもありません。

つまり表現活動というものを、単なる好悪を超えて鑑賞するためにはある程度の共通認識を必要とする以上、それが完全なオリジナルであることは原理的に不可能です。
ならばそれを鑑賞するための文脈や方法論から自分で作ってしまえばいい、という考え方も当然出てくるわけですが、そうなると表現そのものより文脈の完成度や解釈の大胆さのほうが評価の対象になってしまうという齟齬が生じ、また鑑賞するためのハードルが劇的に上がる(何しろ作品や作家ごとにそのバックグラウンドについて勉強しなければならない)ため、大衆文化としては成り立たない、専門家のためだけのものとなるわけです。このあたりは現代アートについて多少の知識がある方ならすんなり理解できるのではないでしょうか。

というわけで、純度の高すぎるオリジナリティというのはむしろ表現活動とその鑑賞を(少なくとも大衆文化において)阻害するものであるならば、個性的な(と評価される)表現とは「鑑賞者の理解あるいは共感を前提としつつ、その予測の範囲を超えるもの」という極めて難易度の高いものになるでしょう。またこれは同時に冒頭で「個性なるものがプラスに働くことは稀」と述べた理由でもあります。

すると個性とは(もちろん生まれ持った何かでそれが出来るなら文句はないのですが)、いかに鑑賞者の予測を超えるかという知性の問題となり、またそのためには不特定多数の鑑賞者を理解、あるいは最低限そのための努力をする必要がある以上、ターゲティングやマーケティングといったビジネス論や統計の問題になってしまいます。

みたいなことを言っていると誤解を招きそうですが、僕は個性の表現のためにビジネスの勉強をしろなどと言いたいわけではなく、少なくとも日本では、表現活動において個性を第一義に置くこと自体がナンセンスだと言いたいのです。

というのも、冒頭のほうで述べたように同調圧力の中で育つ日本人においては、仮に生まれ持った個性とやらがあったとしてもその大部分を成長過程で失うことを宿命づけられているからです(日本でなくとも、社会生活を営む以上ある程度それは不可避でしょう)。またそれに抵抗する人たちもしばしば見かけますが、まさに今抵抗と書いた通り、自然なままで個性を残すというよりは積極的に誇張し、言ってしまえばむしろ不自然さを強く感じる過剰にエキセントリックな表現や、下手すると単なる我が儘でしかないことのほうが圧倒的に多いよう見受けられます。そしていずれにしても人為が加わるなら、それを生まれ持った個性と呼ぶのは無理があると僕は考えています。

すると生まれ持った個性による優れた表現というものがあるとするなら、それは「抵抗ではなく社会生活の中で自然に失われるに任せながらなお残ったものによる、しかも鑑賞者に共感を得ながらその想像を超えるもの」ということになります。そういう表現が存在しないとは言いませんが、「自分はそういうものを作っている」と自信を持って言える人はほとんどいないのではないでしょうか。もちろん僕はそんな大それたことは言えません。

なお「そう言える人だけが表現活動に携わるべきだ」という意見もあるかもしれませんが、大衆文化の大衆文化たる所以は大衆が表現とその鑑賞の両方に携われることにあると考えているので僕は賛同しません。

とはいえ、誰もが同じ表現ばかりするようでは面白くないのも事実です。なので次回は大衆文化であることを前提に、生まれ持った個性でもなく、過剰さによるものでもなく、いかにして表現に「違い≒個性とみなされるもの」を生み出していくかについて考えたいと思います。

なお「声がものすごく特徴的である」とか「指がめちゃくちゃに長くて他人に押さえられないコードを使える」とか身体能力に基づくものは、個性というより才能の問題と捉えているのでまた別の機会に述べようと思っています。悪しからず。

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個性にまつわるあれこれ」への2件のフィードバック

  1. ピンバック: 初夏の風物詩になってるあれの件 | ロックンロール哲学者のブログ

  2. ピンバック: 個性にまつわるあれこれ(2) | ロックンロール哲学者のブログ

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