個性にまつわるあれこれ(3)

予告通り「センス」の話です。
「センスが良い/悪い」とか「あいつは○○のセンスがある/ない」とかいった使い方で褒めたり貶したりするときによく使われる言葉ですね。ただあらかじめ言っておくと僕はこの言葉を安易に使うのが好きではありません。理由は、それが相手の反論を封じるための便利な言い訳として使われている場合がほとんどだからです。

意味を調べてみました。
「センス – 物事の微妙な感じや機微を感じとる能力・判断力。感覚。」(大辞林より)
なお語源はラテン語の「sentīre」という単語で、「感じる」という意味だそうです。

そう定義すると、
「これセンスいいよね」は「これ感じいいよね」となります。つまり「私これ好き」という個人的な好感について同意を求めているに過ぎません。
意地悪く言うなら「これを良いと感じる私の感じ方って素敵でしょ?」と言っていることになります。全く褒め言葉になっていないのです。貶す場合も同様で、「これセンス悪いよね」→「これ感じ悪いよね」→「これを悪いと感じる私の感じ方って正しいでしょ?」です。
いずれにしても本質的に「私を褒めて欲しい」ために使われる言葉であって、これが褒め/貶し言葉として普通に成り立っていることはいかにも日本的だなぁと残念に思うわけですが、結局ここで僕が何を言いたいかというと「センス」という言葉(或いは概念)をもって良し悪しを決めることは、自分の判断が常に普遍的で正しいということを前提としているため、他者との関係においてはほぼ役に立たないということです。

とまぁ偉そうに一席ぶってみたところで、僕にだって何かを見て「センスいいなぁ」と思うことはあるし、そういう感覚というか「センスのある/なし」というものの存在自体を否定するものではありません。ただそれが判断基準としてあくまで内的なものである以上、自分の表現を他者に問うにあたって「センス」を頼ることは「私が良いと感じて表現したものを多くの人もまた良いと感じるだろうと信じる」に留まってしまいます。
「それで何が悪いの?」と思う人も多いでしょうが、そのやり方は端的に言って宝くじを買うようなものです。それで実際に評価を得たところで「私が良いと感じて表現したものをたまたま多くの人が良いと感じた」わけですから、芸術的才能があったというよりは「運が良かった」と捉えたほうが妥当だと思います。また事実才能があって評価されたのだとしても、その才能に恵まれたこと自体「運が良かった」のですから。

それはさておき「センスがある」とはどういうことなのかと問われれば、「物事の微妙な感じや機微を感じとる能力・判断力」があるということですから、「思考をベースとしない洞察力に優れている」と言い換えることも出来ると思います。
ところで前回の話の中で「一部洞察力のある人を除いて~」というくだりを述べたように、「センス=思考をベースにしない洞察力」に優れている人は、その恵まれた洞察力によって思考のプロセスをショートカット出来るわけです。これがいわゆる「センスのある人」がよく言う「表現は思考じゃない、センスだ」の根拠になっていると思われます。

しかしそれは単なるショートカットであって「表現は思考じゃない」ということにはならず、ただセンスを用いて表現することに慣れている人たちが、馴染みのない方法論を否定しているに過ぎません。
先の論法を用いるなら「思考による表現をダメだと感じる私の感じ方って正しいでしょ?」です。もちろんその論拠に基づいて実際に優れた表現をしたときにはその表現自体が説得力をもたらしますが、ではそういった人たち全てが優れた表現を出来るかと言えば疑問が残りますし、またここには当然「そもそも誰にでも通用する優れた表現というものが存在するのか?」という問いも含まれます。そしてご存知の通り、現実には自称「センスのある」人たち同士でも「あいつはセンスがある/ない」みたいな話をするわけですから、やはりセンスという概念を作品評価、表現の良し悪しを語る上での客観的基準とすることは無理があると捉えるべきでしょう。

とは言っても、センスなるものに基づく評価がナンセンスであると断じたところで事実それを元に表現、作品作りをする人たちは大勢いるわけですから、いかにしてそれが表現の向上に寄与しているかも考えないわけにはいきません。正直「センスに自信のある人はそれで好きにやってくれ、そうでない人は頑張って思考を磨いてくれ」と言って終わりにしたいところなのですが、自称センスのある人たちの中にも現実にそう評価されない(単に一般的に評価されないという意味でなく、「センスがあると評価される人たち」にも評価されない)人たちがいるのでもう少し頑張りたいと思います。

では何故「センスがあると評価される人」と「センスがないのにあると勘違いしている(またはそう評価される)人」に分かれるのか、という点についてですが、おそらくその分かれ目は、まぁ皆さん予想していると思いますが「センスが『磨かれているか、いないか』」であると僕は考えます。磨くという言い方が出来る以上、当然それは後天的に向上しうるものです。言葉遊びをしているわけではなく、センスというものが生まれつき固定で死ぬまで磨かれもしなければ劣化もしない、などと考える人はさすがにいない…ですよね?
ともかく「センスがあると評価される人」の中に「センスを磨く努力」をしなかった人は滅多にいないはずです。逆に「センスがないのにあると勘違いしてる人」は、少なくとも僕の経験上では、その努力をほとんどしないケースが多いようです。
ではセンスを磨くための努力とは何でしょう?  おそらく多くの人は「センスが良いと感じる表現、作品に多く触れること、またそれが自分の血肉となるよう取り込んでいくこと」みたいなことを言うのではないでしょうか。つまり環境とインプットの取捨選択です。

ではここで前回の話にざっとでいいので戻ってみてください。
読んでの通り、センスを磨くための努力は、思考によって「違い」を生むための努力とほぼ同じです。というよりも、思考によるための努力の中にセンスを磨く努力が内包されているというべきでしょう。ただその努力の過程で、センスを頼る人は思考をショートカットして違いを生み、そうでない人は考察を重ねることで違いを生む、それだけのことだと僕は考えています。同じことを何度も繰り返し述べるようで申し訳ないですが。

さて先に述べた通り「センスを頼る人」の中で差が生まれてしまう場合のほとんどは「環境とインプットの取捨選択」という努力をする/しないによるものだと思うのですが、しかしその努力を同じぐらいにしてもなお差が生じる場合も多々あります。その理由を才能(それを全く否定するものではありませんが)という言葉で片付けるのは非常に楽でいいですが、僕としてはそんな曖昧かつ夢のないものに根拠を求めるより「最初に自発的な『環境とインプットの取捨選択』を行った時点で、既にセンスが磨かれているかどうか」、つまり生まれ持った才能ではなく、生まれ育った環境に求めたいと思います。この根拠は仮に才能の有無というものを認めたとしてもなお有効であるはずです。

さてセンスのある/なしを環境の問題、経験的領域によるものだとするなら、残念なことに生まれ育った環境、外的に与えられたインプットについて「センスのある/なし」を、最初の自発的な取捨選択を行った段階で判断することは事実上、出来ないということになります。言うなればその段階でセンスが磨かれているかどうか、「センスのある」環境で育ったかどうかは、運の問題です。
もちろん物心付いた頃からその環境が嫌いで、それを否定するようなインプットを選択し続けることでセンスを磨いた人、またその結果として磨かれたセンスを多くの人に評価される幸運な人もいるでしょう。「幸運な」というのは、その嫌ったもののほうが実は評価される「センスのある」環境であったことが後々明らかになる可能性が存在するからです。

しかしそうなると、生まれ育った環境の段階で不幸にも磨かれなかったセンス故に、自発的な選択においてもまた「センスの磨かれていないもの」を選び取ってしまう可能性も大いにあります。本人はセンスを磨いているつもりでも、実態としていつまでも磨かれない自分のセンスを愛でているに過ぎない場合があるわけです。センスを磨く努力をしてもなおセンスがないと評価される人というのは、才能よりむしろこのようなケースが多いのではないでしょうか。

さてそういう人は不運だったわけですが、しかし突破口はあります。センスという客観性のない基準を以て判断するから出口がないのであって、ならば客観的な物差しを用意すればいいことになります。つまり自分のセンスはとりあえず置いておいて、一般にセンスがあると評価されるもの、またセンスがあると評価されている人の評価するものをインプットし、そしてそれが評価される理由を考察すればいいわけです。当然それは自分のセンスが評価されない理由を考察することでもあります。

もし自分のセンスにおいてゴミのようにしか感じられない表現であっても、事実としてそれがあなた(別に僕でもいいですが)の表現より評価されているならば、それを表現した人はあなた(僕)よりセンスがあると一般に思われているのです。まずそれを認めるべきでしょう。それでもなおどうしても自分のほうがセンスがあると信じるのであれば、その立派なセンスによってゴミ(と自分が判断したもの)をアップグレードしてみせればいいのではないでしょうか。
そんなセンスのないことしたくない、一般にセンスがあると思われているほうが実際にはセンスがないのだ、などと強弁ところで、それを評価してくれる他者がいないのでは何の説得力もありません。何度も言いますが「これを良いと感じる私の感じ方って素敵でしょ?」では意味がないのです。
「時代が自分に追いついていない」とゴッホを気取るのは勝手ですが、僕としては「運が悪かった」で済ませることこそセンスのない判断であると思います。

また言うまでもなくこの方法論は「センスがあると評価されている人たち」においても有効です。幸いセンスをうまく磨いてこれた人たちであっても、そのアップデートを自らのセンスのみによって行うのは、やはり客観性がない以上せいぜい「当たりの多いくじを引き続ける」ようなものなのですから。

というわけで、表現に「違い」を生むにあたって思考は不可欠だと僕は考えます。センスが不要というのではなく、客観性のないセンス「のみ」を用いて表現にあたるのは危険だと言いたいのです。

この件は以上です。

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