オーディエンスとの共犯関係とマーケティングと

では前回の続きとして、まずボカロシーンとの協力、共存について考えたいと思います。

先に僕個人としては、以前の記事【箱庭遊びとしての音楽シーン(2)】
で示したように、まずボカロ音源発表→その楽曲の演奏してみた動画発表→ライブという導線を作るのが今後スタンダードになっていくと思っています。
「それ別にボカロいらなくね? いきなり演奏動画でよくね?」と思う方も多いでしょうが、現在の音楽環境でリスナーが最も「自分から新しい音楽を探す」ことに積極的なのはニコニコ動画を利用する層なので、ここにアプローチするためのハブとしてボカロ楽曲を発表するのはマーケティングとして当然と考えます。
ここでボカロをバカにしている層に考えて欲しいのは、「ボカロという技術をバカにしている」のか、「現在評価されているボカロ曲をバカにしている」のか、「ボカロ曲ごときで満足しているリスナー層をバカにしている」のかということです。

まず技術的な面についてですが、これは以前にも述べたように時間が解決してくれます。またその技術的に不満のある歌を、自分の「歌ってみた」によってアップグレードすればそれでいいのではないか、とも思います。
また後者二つについてですが、メジャーのチャートに登場するということはニコ動界隈を超えた一般層に売れているということなので、これは結局「売れ線J-POPのリスナーに自分の音楽が理解されると思えない」と言っているに過ぎません。
一方ニコ動界隈にもマニアックな音楽好きはそれなりの割合で存在するし、またやはり以前紹介したように極めて質の高い楽曲を発表し、きちんと評価をうけているボカロPも存在します。なのでこの理由をもって挑戦しないのは単純に逃げだし甘えだと僕は思っています。むしろ「自分の音楽をもってニコ動界隈の音楽好き層を掘り起こそう」ぐらいの気概を持ってトライして欲しいものです。

さて一方、「歌ってみた/演奏してみた動画」文化は盛り上がる一方で衰退の兆しも見えはじめています。理由は単純に、下手でもとりあえず発表すればそこそこの視聴者が集まることで、全体のレベルが非常に低下していることです。これは「演奏してみた」系のイベントをライブハウスで主催するボカロPから話を聞いたこともあるし、またその状況を皮肉ったボカロ曲「インターネットカラオケマン」が最近話題になったことを知っている人も多いでしょう。

これは逆に見ればチャンスです。レベルが低いことによって飽きられているのなら、実力のあるミュージシャンが質の高い歌、演奏を発表することで一気に注目を集める可能性もあります。ボカロ曲をわざわざ作るのが面倒或いは難しいなら、既に評価されている曲を質の高い「演奏してみた」動画でカバーすることで自分たちの楽曲へと視聴者を誘導することもできます。そういった活動をするミュージシャンが増えることでボカロ系リスナーと、ライブハウス中心のリスナーとの間で流動性が生まれるかもしれません。そうなればなおさら活動しやすくなるのは言うまでもなく、またせっかく生まれた新しい市場を再活性化させることにも繋がります。

マーケティングの基本はV系について述べたのと同様、まず顧客のいるところを目指すことです。何の導線も張らずにいきなりライブハウスに出演したところでそこにお客さんはいません。もちろんコンスタントに100人近く動員できるバンドも少なからずいますが、実績のないミュージシャンがそういうバンドと共演させてもらえることはまずありません。
繰り返しになりますが、楽曲や演奏に自信があるなら、なおさら集客のために盛り上がっている市場に食い込む方法を考えるべきです。

さて僕がこうして「ボカロ市場に食い込むための活動」を執拗に勧めるのを鬱陶しく思う人もいるかもしれません。
「金のために音楽やってるわけじゃない」というのはよく耳にする言い訳です。もっとも言い訳でなく本当にそう考えている人も多いと思いますし、僕自身も金だけを目的にやっているわけではありません。そもそも売れてないですし。また純粋に音楽の可能性と向き合うことでしか発明・発見出来ないような音楽も存在するでしょうし、そういう人たちがいてくれないと困る、という思いもあります。

ただ少なくともポップミュージックに携わりながら音楽を続けていくつもりであれば、市場の変化、オーディエンスの意識や振る舞いの変化を無視することは不可能です。なぜならポップミュージックという文化においては、オーディエンスとのある種プロレス的な共犯関係の中でしかそれが「良い音楽」として存在することは、ほぼ出来ないからです。これはJ-POPにおいてもV系においてもアイドルにおいてもロキノン系においてもそうですし、アメリカで一番売れる音楽ジャンルが実はカントリーであることも、黒人の多くがブラックミュージックしか聴かないのも同じことです。

要するに「盛り上がっている市場に食い込む」ということは「共犯関係を積極的に結びたがっているオーディエンスが沢山いる場所に食い込む」ということなので、現在の日本で活動する以上、V系をやらない(なれない)ならボカロを中心としたニコ動界隈で勝負するのは当然と考えるべきでしょう。

しかし僕がボカロにこだわる理由はそれだけではありません。
ボカロおよび歌ってみた/演奏してみたの盛り上がりをきっかけに、アマチュア/インディミュージシャンの在り方そのものが全く変化する可能性がある、と僕は考えています。

とその内容まで述べようと思っていたのですが長いので続きます。

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ボカロシーンとはインディムーブメントであることを再確認する

僕は音楽が好きなのでこうしていろいろ書いていますが、実際問題として音楽好きが増え、仮にそこから良い音楽が増えまたそれがきちんと評価されるようになったところで、だからどうした、と言われればそれまでです。
ただ正直に言って僕は産業としての音楽業界には、今となってはあまり興味がありません。むしろ音楽を仕事としてやっていく上で、大規模な産業である必要はないのではないか、もう職人でいいのではないかと思っています。

その上で、ここでレコード業界の体質がどうの、著作権法がどうのといった話は専門家に任せるとして、作り手の現場、とりわけこれから活躍したいと思っているアマチュア/インディミュージシャンの立場から何か出来ることはないか、という立場で述べていきたいと思います。

さて僕は広義のポップミュージックにおいて、かつて日本では大きく分けて2つ、現在では3つの活動形態が存在してきたと考えています。
1つは昔ながらのバンド/シンガーソングライターであり、自分たちで作詞作曲、演奏までをこなすものです。スタジオに入って練習し、ライブハウスで演奏する人たちです。人前でのショウを経ずにレコード会社に売り込む人たちもいますが、どちらにせよ音楽業界の仕組みの中に入って売れることを目指すのがスタンダードなので、本質的に同様であると考えます。
もう1つはDTM、いわゆる打ち込みです。エレクトロニカ/ハウス/EDMほか、現在ではヒップホップもトラックメイクにおいてはこちらに分類して構わないと思います。これらの人をライブハウスで見ることはさほど多くありませんが、クラブなど人前で(DJとしても含め)ステージに上がることもあるのでショウをやるという意味では前者と被る部分もあります。ただこちらは売れるということに対してあまり貪欲でない人たちが多い印象があり、メジャーシーンのチャートなどに食い込んでくることは稀です。

そしてそこから更に、VOCALOIDというテクノロジーと共に派生したのがいわゆるボカロPです。打ち込みで作詞も歌録りもこなし、その特性上作り手が人前でショウを行うことはほとんどなく、ネット上での作品発表に絞った活動をしている人たちです。原則として人前でのショウをやらない、またレコードを売ることを目的としないのを前提に、しかしそれがきちんと評価を受ける場が成立している、さらにはメジャーのチャートにまで登場する、という点をもってこれを第3極としていいと思います。
同じように考える人も多いとは思いますが、僕は資本と関係なく活動するミュージシャンがきちんと一般層にまで評価されているという意味で、これが日本における初めてのインディムーブメントではないかと考えています。
なお地下アイドルについては活動形態が錯綜しているので保留します。V系はその売り方においては地下アイドルに近いですが、活動形態としては1つめに属すと考えてよいでしょう。

皆さんご存知の通り、また以前の記事で書いた通り、前者2つ、とりわけ1つめの形態は音楽産業全体に歩調を合わせるように衰退しており、一方でボカロは以前の記事で示した通り、着実に市場を拡大しています。【箱庭遊びとしての音楽シーン】
しかしながら未だ前者のミュージシャンにおいてはボカロシーンと歩調を合わせる気配はなかなか見えず、地下で活動する人たちの多くは90年代のインディムーブメント再来を願っているようです。考えれば当たり前なのですがあんな時代は二度と来ないので、このままいけば(少なくとも日本で)前者、特に1つめの活動形態が淘汰されるのは時間の問題ではないかという気すらしています。もちろん完全に絶滅するとは思いませんが。

ところで僕は現在のボカロシーンを日本で初めてのインディムーブメントと捉えていると述べましたが、では90年代とは何だったのでしょう。
少しその頃の話をします。
現在30代〜の人たちはおそらく記憶していると思いますが、いわゆる「小室サウンド」とよばれる小室哲哉プロデュースのシンガー、グループが一世を風靡したことがあります。大資本をバックに大量のTV露出とタイアップを重ね、カラオケブームとも合いまってCD市場を劇的に拡大させました。YouTubeもMyspaceも存在しなかったその頃は、音楽を聴くということはCDを買うこととほぼイコールだったからです。それ以前はミリオンセラーとなれば社会現象に近いものだったのが、このピーク時には4〜500万枚を売り上げるアルバムが何枚もあったものです。
そして市場全体が爆発的に拡大した結果、それまでは地下でひっそりと「分かる人にだけ分かる」活動をしていたロックバンドなどのCD売り上げも大きく伸びました。Hi-STANDARDを筆頭にインディバンドが数十万枚を売ったのも、それまで最大100万枚の市場で3〜5万枚売れる音楽をやっていた人たちが、5倍に拡大した市場で5倍の枚数を売ったに過ぎない、つまり増えたのはあくまで母数であり、アマチュア/インディミュージシャン、或いは地下ロックシーンに注目する人の割合が増えたわけではないと僕は考えています。すなわち90年代日本にインディムーブメントなんてものは本質的に存在しなかったのです。

なのでCD市場の規模が数十分の一になった現在、「あの頃インディ好きだった人たちはどこへいったんだろう?」などと考えるのは全くのナンセンスなわけです。考えるべきはあくまで「あの頃音楽に金出してた人たちはどこへいったんだろう?」なのですが、90年代においてバブル経済は既に崩壊したとはいえ、それ以前の余波で未だ趣味に金を使う余裕がありました。しかし現在においてはその余裕も薄れ、またフリーミアムモデルの浸透によってコンテンツに金を出すこと自体を忌避する風潮がある以上、音源そのものがかつてのように売れる状況が再び訪れるとは考えられない、とするのが妥当でしょう。

さてそういう時代を読めない(読まない)人たちは勝手に淘汰されればいいんじゃないか?という気持ちもなくはないのですが、冒頭でいう前者の立場に長年携わってきた身としては、そこに現在でも素晴らしい音楽を作る人、素晴らしい演奏をする人たちが沢山存在することを知っています。そういう人たちが単に滅びるのを見るのは忍びなく、どうにか協力、共存できないものかと考えている次第です。

次回はその協力/共存と活動形態の変化についてのビジョンを述べたいと思います。以前に述べた内容と重複する部分もありますがご容赦ください。

「音楽好き」とは誰なのか

先日友人と飲んでいたとき、こんなことを言われました。

「おれはこうしてプライベートでも会って話すし昔から人柄を知ってるから発言の真意もだいたい読めるけど、そうでない人たちにとっては発言の一部を切り取って誤解されたり疑問を持たれたりするのは当たり前だよね?」

うーん、まぁ確かにそうなんですが…誤解を恐れてたらSNSなんぞ使えないし、とも思いました。そこにこう続けられます。

「っていうか発言の一つ一つが最終的にどこへ繋がっていくのかをあらかじめ明らかにしておくほうが親切じゃない?」

あぁなるほど、確かにそうかもしれません。曖昧にしておいたことに理由がなくはないのですが、Twitterにせよまとめにせよブログにせよ発言の前提をある程度共有しておいたほうが伝わりやすくなるのは間違いないでしょう。
なので今回から何度かにわたってそのあたりを書きたいと思います。

以前から僕の発言を読んでくれている人たちは「音楽好きをもっと増やしたい」という旨の書き込みを何度か目にしているとは思います。それは音楽好きが増えることによって日本の音楽の質が上がり、そして良い音楽が増えることによってその文化的な立ち位置が確立されると僕は考えるからです。
つまり「良い音楽が増え、そしてその音楽がきちんと評価されること、さらにはそのサイクル自体が社会的にきちんと評価されること」が僕の望むことです。

もちろんそこで、じゃその「音楽好き」って誰よ?という突っ込みは当然考えられます。
例えばアイドルヲタだって買った端から捨てるというならともかく、好きで音源を聴いている以上それはやはり音楽好きと言うことが出来てしまいます。
しかしもちろん僕はそういう意味で言っているのではありません。一方、洋楽を聴くのが音楽好きだとか、ブルースなどルーツミュージックを聴くのが音楽好きだとか、はたまたクラシックもジャズもいわゆるワールドミュージックもアイドル歌謡も満遍なく聴くのが真の音楽好きだとか、そういうことを言いたいのでもないのです。
すなわち聴く音楽が何であろうと、批評精神が介在しなければそれはただ「自分の好きな音楽は良い音楽だ」と言っているに過ぎないからです。
それでは順序が逆なので「良い音楽を増やす音楽好き」にはなり得ません。

したがって僕の言う「音楽好き」には批評精神が必要で、つまりその定義は「自分の好きな音楽に対して『どうしてそれが良い音楽だと思うのか?』を考える人」となります。
でなければどれだけ沢山の音楽を聴いていようが、どれほど音楽史に詳しかろうが、僕にとっては音楽好きというより、音楽カタログが好きな人、という認識です。逆にその追求する姿勢があれば、たった1枚のアルバムしか聴かないという人であっても「僕の言う意味での」音楽好きです。
ただ音楽にはやはり歴史的背景というものがあるので、本気で探究しようと思えば結局は比較検討のために大量の音楽が必要になります。その結果として、僕の知っている「音楽好き」はみな、沢山の音楽を聴いています(作り手においてはさらに理論や技術、機材の知識などといった要素が出てきますが、ここでは考えないことにします)。

「いや難しいこと抜きに何となく聴いてカッコよければそれでいいじゃん」という人も沢山いるでしょうし、というよりリスナーの大半がそうだと思うのですが、それだと数ある文化芸術エンタメの中で、敢えて音楽を選んで金と時間と手間を費やす理由としては非常に弱いと思います。
とりわけゲームやニコ動のように「オーディエンスが作品の成立に関与できる」種類のものに対しては勝ち目がない(AKBを持ち出すまでもなく、裏を返せばそこにチャンスがあるという意味でもあります)と考えるほうが自然でしょう。
結局のところ現在なお音楽に拘る人たちというのは、その楽しみ方を自分で発見している人たちです。そしてそこに自ら批評を加え、楽しみ方をアップデートし続けている人たちです。これは音楽に限ったことではないのかもしれませんが、自己批判なしに審美眼は成長しません。

そしてその自己批判はネットなりライブハウスなりで自分が目や耳にする音楽への批評にも繋がっていくわけで、その批評を通じて音楽の選別も精度が増していけば、淘汰も自然と進むのではないでしょうか。
なので質の高い音楽が広まることを望むなら、まずは自己批判しながら音楽と向き合う「音楽好き」のリスナー、オーディエンスが増えないといけない、というのが僕の主張です。

ではどうしたらその状況が生まれ得るかについて、次回はアマチュアミュージシャンが現在置かれている、また今後置かれることになるであろう環境について交えながら述べていきたいと思います。

箱庭遊びとしての音楽シーン(2)

ライブ演奏に触れたことのある人たちは、そこに音源や動画とは全く別種の面白さがあることを当然のものとして知っていると思います。
しかしライブ演奏の場として一般的な、ローカルなライブハウスの平均集客は落ちる一方で、つい最近にも「渋谷屋根裏」という非常に有名なライブハウスが経営困難に陥って出資を募っているというニュースがありました。
【渋谷屋根裏が経営悪化で営業終了、存続のため協力者募集(ナタリー)】

これほど有名なハコですら経営悪化する背景には、以前作ったtogettterまとめ【続・なぜライブハウスはバンドに集客を依存するのか?】
にも書いたように、ライブハウス側以上に出演者側の意識に問題があると思っています。
しかし同時に「既に知っている出演者を除いて、支払う金銭と時間に見合うショウを観れる保証がない」ことによって「ふらっと足を運ぶ」ことにお客さんが二の足を踏んでしまうことも大きいと思います。そもそもそういう文化的土壌が日本に出来ていないという意味でもあるのですが。

単純にライブハウスチケットの相場が高い(1500〜2500円程度+1ドリンクが一般的、アメリカでは5ドル前後)こともありますが、ライブハウス或いは出演者が奮発して500〜1000円、時にはフリーのイベントを企画しても爆発的に集客数が伸びるとは限らないのが実情です。
前回書いた「大御所、フェス、アイドルを除いてライブ集客が増えていない」というのも結局は「観たいものが観れるとは限らない」お客さん心理の現れではないでしょうか。

それに対し「あらかじめそれが観たいものかどうかを提示する」ため、アマチュア/インディミュージシャンでPVやライブ映像を撮影してYouTubeにアップし宣伝に使っている人たちも多いですが(全く効果がないとは思っていません)、そもそもYouTubeでアマチュアミュージシャンの動画を積極的に見たい人たちがどのくらいいるかと考えると、費用対効果においてやや疑問が残ります(あくまで日本の場合)。

ここでようやく前回の話に戻ってきます。
つまり既に大きなリスナー層を持つボカロシーンとの融和を図れないだろうか、ということです。
前回示したカラオケランキングに現れているように、もはやポップミュージック一般のリスナーにとってニコニコ動画を中心としたボカロシーンは、ライブハウスを中心とした生演奏中心のシーンより遙かに大きくなっています。
それどころかいわゆる「J-POPシーン」より大きく(見方によっては、その中の最大勢力に)なりつつあるのです。またその拡大を続けるシーンが縮小に向かう兆しは現在のところ見られません。それと同時に、(ほぼ)全てを打ち込みで作るボカロシーンにおいてすら、生演奏による楽曲の「ライブ感を伴った」再現には抗えない魅力のあることが示されています。
ならばボカロシーンというより大きな箱の中に、その一部、或いは重なり合いとして生演奏のシーンを再定義するほうが生き残りの方策として現実的ではないかと思うのです。

具体的には、自分たちの楽曲をまずボカロ曲として作成、ニコ動にアップし、その「演奏してみた動画」として自分(たち)のライブ動画をさらにアップ、しかる後それを元にライブの告知をする、という手順になります。二度手間のようにも見えますが、現在のリスナーと音楽シーンとの関係を考えれば、興味を持ってもらうためのレイヤーを何段階にも用意するのはおかしなことではありません。

「ボカロが売れるのはそれがボカロだからだろ?」という反論が飛んできそうですが、ボカロPから出発して一般ミュージシャンとのコラボ作品を作って実際に売れている人たちも増えているので「自分の音楽を広める導線としてのボカロ」には充分なチャンスがあると考えられます。
(参考-【ボカロP&ネット音楽クリエーター最前線-DrillSpin Columnより】
もちろんボカロシーンの中にもある種の「売れ線」的なものは存在しますが、近年ではヒットする音楽性もかなり多様化しているのでやる価値、可能性はYouTubeより遥かに高いように思えます。
若い人たちの中では既にやっているミュージシャンも増えてきているようで、ポップミュージックというのはやはり本質的に若者のものなのだな…と僕のようなおっさんは感慨に耽ったりするのですが。

また一方でニコ動界隈では嫌儲思想がかなり根強いため、最初から売れることを目指して活用することへの反発は確かに予想されます。しかし初期と比べればライトユーザーも増えているし今後も増えていくだろうと思われるので、あまりそこを気にするよりも素直に楽曲への「即座に返ってくる」反応を楽しむほうが健康的ではないでしょうか。

仮にそのやり方がスタンダード化するなら、ライブハウスにはニコ生やUSTREAMを配信できる動画撮影環境が必須となるだろうし、また打ち込みの苦手な人のために腕の良いボカロPが依頼されて音源をボカロ化する商売が出てきても不思議ではありません(もうあるのかもしれませんが)。

現在主流のアイドル的な売れ方と相似のシーンとしては既にV系があるので、そこに(心理的側面にしろ、楽曲ジャンルや歌詞の面にしろ)適応できない人たちがボカロシーンの売れ方を参考にするのは自然な成り行きのように僕は思うのですが、いわゆる「オタクカルチャー」との結びつきを拒む傾向がまだまだライブハウスシーンの大勢を占めているのは残念です。

いくら「昔は良かった」と懐かしんだところで時代は変わっていくので、新しい環境に適応できる人たちが生き残るのは仕方ないと思っています。特にメインストリームのものとして輝きたい音楽をやっている人たちが、抵抗を続けて地下にとどまり続けることに意味があるとは僕には思えません。
さらに言うなら、地下にしか居場所がない音楽をやっている人たちも、明確なメインストリームがあってこそカウンターとして輝くと思うのです。

もっともその「メインストリームの音楽」でさえも、現在では多種多様な趣味の箱庭の一つに過ぎないのは言うまでもありませんが。

この件は以上です。

箱庭遊びとしての音楽シーン

まずはこちら「音楽主義 56号」の24ページをご覧ください。

(2012年 JOYSOUND カラオケリクエスト世代別TOP20)

これを見て、生演奏中心の活動をするアマチュア/インディミュージシャン、およびそのファンはどう思うでしょうか。

10代ではボカロ名義が10曲、ボカロがクレジットされてないボカロPの曲を含むと14曲 (20曲中)
20代では同8曲/11曲
30代では同3曲/4曲
40代では1曲

よほど捻くれた神経の持ち主でない限り、日本におけるポップミュージックの中心は既にボカロであると認めざるを得ないと思います。
それは言い過ぎと思われるでしょうか? では10年後を想像してみてください。この10代が20代に、20代が30代になった未来です。そこではもはや、ボカロ曲が「世代の音楽」として認知されているに違いありません。
もちろん更なる新しいムーブメントが起こっている可能性も大いにありますが、「10年後の最先端」をここで論じても仕方ないので考えないこととします。

また20代と30代を境目にして、各世代に対するボカロ曲の浸透率が大きく変わることも分かりますが、これは音楽文化の流れがどうこうというより、単純に歳をとるほど「新しい文化」へコミットする上での心理的ハードルが高くなることが主要因と思います。
僕が子供のころ、世代間の断絶を表現する言葉として、若い世代を「新人類」と呼ぶことがありました。しかしその新人類なる世代が上記のランキングでは既に旧人類であることが示されています。
自戒を込めてですが、年寄りに若者の発想が分からないのはいつの時代でも不変の事実です。

一方で世代を問わず、生演奏主体のミュージシャン界隈からは「ボカロは歌じゃない」との批判は根強いし、そう言いたい気持ちは僕にも分からないではありません。しかしVOCALOIDは単純にテクノロジーなのだから、今後どんどん進化して生歌のニュアンスに近づいていくに決まっている(逆にあえて機械っぽさを残す方向へ進化する可能性もあるが、技術的に生歌へ近づける努力がなされないとは到底考えられない)のです。

翻って80年代までは「シンセサイザーは楽器じゃない」との批判が多数あったものですが、現代においてそんな批判はバカバカしいほどに的外れです。
よしんば狭義において楽器ではないと認めるにしても、音楽を作成/演奏するにあたって「楽器として扱う」ことに異論ある人はまずいないはずです。
するとボカロ音源が、歌そのものにはなり得ないとしても「歌として扱われ」るようになるのは時間の問題と考えるべきですし、既にそれは始まっていると言うべきでしょう。
でなければ「ボカロ曲がカラオケで消費される」ことがそもそも不可能であるからです。

さてボカロ文化がいかにしてシーンを席巻するに至ったかについての詳細はここでは割愛しますが、ニコニコ動画を中心とした箱庭的世界観で育ったボカロがいつの間にかメインストリームに近いものと化し、逆にかつてメインストリームに近かったバンド生演奏の文化が、いまやライブハウスを中心とした箱庭遊びと化しているのは皮肉としか言いようがありません。

これを単にシーンの新陳代謝と捉えるのは簡単でしょう。しかし一方でボカロ曲(やアニソン)をバンド生演奏するイベントがクラブやライブハウスで行われることも多いという事実は、歌に至るまで打ち込みで作られたボカロ曲でさえ、それを生演奏することへの欲求を否定できなかったと捉えることもできます。

いったん話は逸れますが、音源が配信メインになっていくのに併せてライブ動員/売上が毎年のように史上最高を更新する欧米と違い、日本では大型フェスとアイドルのコンサート、および10~20年選手の大御所を除き、ライブ動員はなかなか増えていません。そしてそれが日本の音楽業界の抱えている危機の本質です。音源が売れなくても、それを聴いたファンがライブショウに足を運べば充分ペイできるはずなのに、現実にはそうならないことが問題なのです。

ここには「音楽の生演奏」がどの程度身近であるか、という日常における音楽との関わり方において根本的な差があるようなのですが、そのことが生む歪みこそ日本の音楽シーンが昔からずっと解決できずにいる病巣であると僕は考えています。
例えばロックインジャパンフェスが毎年3万人動員しているのに対し、手近なライブハウスに足を運ぶとフロアには出演者を含めて20人程度、というのはありふれた光景です。

フェスに毎年行くのにライブハウスには行かない人たち、彼らは普段、音楽とどう付き合っているのでしょう? もちろんその層にとってフェスはただのレジャー、海に行ったり花火を観たりと同様のものであるという解釈は理解できます。しかしそこに希望があるとは思えません。
彼らが消費するのはフェスという体験であり、楽曲はむしろBGMでしかないからです(もちろんその楽しみ方自体を否定はしません)。音楽文化を消費/醸成するという意味で、僕の目にはボカロ曲を生演奏する層のほうによほど希望を感じます。

ここで再び冒頭の件に帰ってきます。カラオケという形ですが、日常の中でボカロ曲を「音楽」として消費しているのが現在の10~20代です。
カラオケもまた楽曲そのものを体験として消費するものではないのでは?と思われるかもしれません。それは確かにそうなのですが、わざわざカラオケに行って歌うからには、バックボーンとしてその曲をそれなりに好きで聴きこんでいる必要があります。
すなわち現在の10~20代は、ボカロ曲を、少なくともある程度は、きちんと楽曲として、音楽として消費していることになります。そしてそれをバンド(あるいは歌ってみた/弾いてみた動画)で生演奏する層も少なからずいるわけです。

オチが見えてる感もありますが一応続きます。