ライブハウスのプライド(4)

このシリーズも4回目になりました。
正直なところ言いたいことの大部分は1回目で言ってしまったのですがもうちょっと続けてみます。

さて前回、料理店の例え話の最後、いくつかの選択肢が出てきました。
一つは「客寄せなど放棄して、最高の料理を出すことだけに専念する」
次に「少ないながらも常連客はいるのだから、現状のまま細々とやっていく」
そして三つめ、書きませんでしたが皆さん見当は付くと思います。
つまり作業コスト、従業員の教育コストの増加を承知で「接客サービスの質を上げる」です。

上記の選択肢をライブハウスに置き換えてみましょう。
一つめは「こだわり抜いた機材と腕のいいPAスタッフの手で素晴らしい音質のライブが観れるものの、店内は汚く、チケットは高く、従業員の態度は悪く、フードメニューも無い」ハコです。
二つめは「チケットは若干安く学割もあり、ホームページの視聴コンテンツが充実し、フードメニューも充実しているものの、機材の質、PAの腕は若干落ち、店内は汚く、従業員の態度は悪い」ハコです。
三つめは「チケットは若干安く学割もあり、ホームページの視聴コンテンツが充実し、フードメニューも充実しており、店員は親切で店内には清潔感があるものの、機材の質、PAの腕はさらに落ちる」ハコです。

もちろん四つめの選択肢として「こだわり抜いた機材と腕のいいPAスタッフの手で素晴らしい音質のライブを観ることができ、チケットは安く学割もあり、ホームページの視聴コンテンツが充実し、再入場も自由でフードメニューも充実している上に店員は親切で店内には清潔感がある」ハコというのも考えられますが、これは少なくとも首都圏ではテナント料の関係で不可能だと思います。莫大な資産の持ち主が道楽でやるというならともかく。

参考までに、今年オープンした「ヒソミネ」というハコがあるのですが、「清潔感のある店作りおよびUst配信やフードなど各種サービスを充実させる一方、キャパは5~70人程度の狭さでいい」というコンセプトにも関わらず、高いテナント料のために都内でオープンすることを諦めた経緯があるそうです。

というわけで、全てを理想通りにはなかなか出来ないのですから何かしら犠牲にせざるを得ません。この「ヒソミネ」の場合は「都内で営業すること」と「店の大きさ」を犠牲にしたわけです。もっともこのハコの場合、大きさについては「100人キャパの必要なバンドはそんなにたくさんいない」という判断を以てあえて狭い場所を選んだとも聞いているので、その点に関しては必ずしも犠牲にしたとは言えない面もありますが。

話を戻し、僕の主張する選択肢はもちろん三つ目となります。
僕もバンドをやっているので、そりゃあ良い機材、良い音質でライブをやりたいと思います。しかし「ライブは観てみないと分からない」のだから、「どうしたら観に来てくれるか」を考えなければならないし、お客さんに「そのライブを観てみたい」と思ってもらわなければ始まらないし、そして観てもらった後「またここでライブを観たい」と思ってもらえなければ困ります。

お客さんに「このハコ感じ悪いからもう来たくない」と言われたなら、出演者が頑張って呼んだお客さんに「少なくない金と時間を使わせた上に不愉快な思いをさせた」ことになります。楽しんでもらいたくて呼んだ以上、それは何よりも避けなければいけないはずです。

ならば「ライブハウスの客はバンド(出演者)じゃない、バンドが連れてきたお客さんだ」という認識を持つべきで、当然ハコのスタッフには「接客業としての意識」が必要になるわけです。
「ビールが不味い」と言われたならせめてサーバーの洗浄ぐらい毎日やって欲しいのです。
ドリンクの注文を受けたら「ありがとうございます」の一言ぐらい言って欲しいのです。
実際のところ「ライブハウスのプライド(2)」の例に出て来た飲食店のように埃が積み上がっているハコは滅多にないでしょうが、来店したお客さんに、雰囲気の段階で「なんだか薄汚いところだなぁ」と思われてしまったら同じ事です。ちゃんと掃除されているだけでは不充分で、清潔感があるかどうかが問題なのです。
それとも「そんなのはライブハウスの役割じゃない」のでしょうか。ではお客さんに面と向かって「音質は最高なのだからその他の不備については我慢してくれ」と言えるのでしょうか。

ところで「ライブハウスの役割」とは何でしょう?
或いは「ライブハウスでなければいけない理由」、別の言い方をするなら、ライブハウスとはどのような意味で「特別な場所」なのでしょう?

1・ヒットチャートに現れない、けれど凄い音楽やライブショウを観ることの出来る場所。
2・家でCDを聴いたりDVDを観たりするのとは違う、迫力のある生演奏を味わえる場所。
3・それらに特別な価値を見出す人々が集まる場所。
といったところでしょうか。
なるほど否定出来ません。僕自身なんだかんだ言って、ライブハウスが嫌いなわけではありません。だからこそ「本当にこのままで良いと思ってるの?」というのが本心です。

僕が問題にしているのは「ライブハウスが特別な場所であり続けるために、何が必要か」についての見解、そのハコ側の視点とお客さん側の視点の相違についてです。
僕は先に書いた通り「接客業としての意識を持って欲しい」と思っています。何故なら、まず上記1と2については結局のところ出演者の責任で、そのためにハコが出来ることは限られているからです。
機材がどうの、PAの腕がどうのといったところでそもそも出演者の力量/パフォーマンスが低ければどうにもならないのですから。
一方3について、集まった人々が「そのハコ」を気に入ってくれるかどうかは、そのハコの居心地が良いかどうかが問題です。集まったお客さんが「またこのハコでライブを観たい」と思わなければ、他でもない「そのハコ」の存在する意味がありません。
「同じイベント内容ならどこでもいい」と思われたなら、そのハコの存在意義はないのです。

しかし残念ながら多くのハコのスタッフたちは「ライブハウスは特別な場所なのだから、敷居が高くなければならない」と考えています。ハコ側のみならず、ときには集客に悩むバンドマンですらそう考える人たちがいます。
これには歴史的経緯が関係しているので少し複雑ですが、次回はその件について出来るだけ簡単に解説したいと思います。

ライブハウスのプライド(3)

さて前回はライブハウスを料理店に譬えた長い話をしました。

お分かりの通り、料理は出演者です。初心者の頃から手塩にかけて育てたバンド、或いは噂を聞いて試聴した後粘り強い交渉によって出演に至った実力者、そういった出演者たちを集め、音楽性や活動方針などなど、何かしらの基準に沿ってこだわり抜いたブッキングです。
その他店内のディティールや、店主の考え方については言うまでもないでしょう。

今回は建設的な話をしようと思うので、この料理店の話を題材に改善点を考えていきます。

まず料理は最高です。それ自体としては文句のつけようもありません。しかし最高であるがゆえにコストもかかってしまいます。考えて欲しいのは、多少の妥協をすることでコストを下げたほうが、お客さんにとっての敷居も下がるかもしれないということです。ランチ¥2000が¥1000だったらフラッとやってくる人が増えるかもしれません。最低の接客でも割安で美味しいものが食べられるなら常連になってくれるかもしれません。
「それで料理の質が下がったら本末転倒だ」と思うでしょうか。気持ちは分かりますが、本当にそうでしょうか。せっかく腕を磨いて店を出し、毎日地味な下準備と研究を重ねながらその腕を奮う機会がないこと、それこそ本末転倒ではないでしょうか。
「料理は食べてみないと分からない」と思うなら、なおさら「どうしたら食べに来てくれるか」を考えなければならないはずです。その料理を食べて欲しいのなら、まずお客さんに「その料理を食べてみたい」と思ってもらわなければ始まらないのです。

すると店頭についても考え直す必要があります。看板も「ランチやってます」ではなく「本日のランチは○○です」、さらにその○○についてある程度の詳細を書くべきでしょう。例えば単に「冷製パスタ」と書いてあるより「季節の野菜たっぷり 冷製トマトソースのカッペリーニ・ジェノベーゼソース和え」とでも書いてあったほうが興味は持たれやすいはずです。しかしあまり詳細に書きすぎても却って読みづらくなる面もあります。

そこでホームページの出番です。
そのメニューがオススメだというなら、食欲をそそるよう完璧に盛り付けた写真とともに、その調理方法や食材へのこだわりについて書くことも出来ます。多少長い文になっても店頭で読むほどのストレスは感じさせないでしょう。コース料理の写真をスライドショー形式で見せるムービーを作ってもいいかもしれません。そしてそのURLを看板に付記するなり、QRコードを張り紙することだって出来ます。

それでもすぐにお客さんが増えるとは限りません。むしろそんな簡単にはいかないことのほうが多いでしょう。
ならば店員の手は空いているのですから、店頭、或いは遠くなければ駅前など人通りの多いところでビラ配りをしてみたらどうでしょう。そこですぐ来店することはなくとも、読んで興味を持てば後々来てくれるかもしれません。
ただビラを配っても受け取ってくれないというなら、ソフトドリンクなりハウスワインなりコストのさほどかからない範囲でサービス券を付ければ多少は受け取ってくれる人も増えると思います。
また店頭に試食コーナーを設ける手もあります。むしろ「食べてみないと分からない」ならそれこそ何よりも必要でしょう。いずれお客さんが来なくて食材を廃棄するぐらいなら後々の集客へ向けてサービスしたほうがマシです。

再度例え話に戻ってみます。
試行錯誤を重ね、地道な宣伝努力の甲斐あって来店数は少しずつ増えてきました。値下げに伴い思うような食材を使えないストレスはありますが、なにしろ腕はいいのですから同価格帯で少しでも美味しいものを食べたい人たちには支持されます。リピーターも僅かながら増えてきました。
しかしそれでも割合としては、満足そうに帰りながら二度と来てくれない人たちのほうが圧倒的に多いようです。
あなたはリピーターの一人に尋ねてみましたが、納得のいく回答は得られません。
「なんでだろうね? 美味いのに。この値段でこの味なら文句ないよ」そんな調子です。
もちろん来てくれるお客さんはわざわざ面と向かって店にケチを付けたりはしません。下手にダメ出しをして悪印象を与えたくないからです。
そんな印象をなんとなく感じ取ったあなたはアンケートを取ることにしました。
料理については高評価がずらりと並びました。
一方で、自身を含む店員の接客態度、清掃状態や店内の雰囲気などには辛辣な意見が並んでいます。簡単にまとめると「料理は文句なしだけれども、人を相手にサービスする意識は皆無。二度と来たくない」といったところです。
あなたはショックを受けます。「ここは料理店なのだから、最高の料理を出すことこそサービスではないのか」と。その料理ですら自分を曲げてコストダウンを図ったのに、それでもまだ足りないのか、と。
あなたは選択を迫られます。
いっそのこと客寄せなど放棄して、以前のように最高の料理を出すことだけに専念しようか。
それとも少ないながらも常連客はいるのだから、現状のまま細々とやっていこうか。
それとも。

続きます。

ライブハウスのプライド(2)

前回「そのハコがどんなところなのかを可視化する努力をしたほうがいいのではないか」というところで話を区切りました。

ハコの言い分としては「そういうことはホームページで説明しているからそっち読んでくれ」ということなのかもしれませんが、そもそも興味のないものに対してわざわざホームページを見にいく酔狂な人は滅多にいません。

ホームページにしても内装の写真ぐらいアップしているでしょうが、「ライブ」を商品とするライブハウスでただの内装写真を何枚載せたところでお客さんへのアピールにはなっていません。またどのハコのページを見ても出演者側の料金体系がどうとか機材が何だとかの説明ばかりで、お客さんを対象としたコンテンツはスケジュールと地図ぐらいしか載せていないものがほとんどです。

そのスケジュールを見ても店頭立て看板と同様、出演者名の羅列と料金とスタート時間しか書いていない場合が多く、ハコのイチ押しらしいピックアップイベントですら前述のものにただ出演者の写真を加えただけ、というものもよくあります。本当にイチ押しだというならイベントの趣旨に加え各出演者の動画や試聴リンク、せめてホームページへのリンクぐらい貼ってあげればいいのにと僕は思うのですが。地図にしても道案内の記述をしている親切なケースもありますが、Googlemapをそのまま貼り付けただけのものも珍しくありません。一般の、バンドマン以外のお客さんに対してハコのファンを増やそうという意図を持たないのがライブハウス経営のスタンダードということなのでしょうか。

それとも「いや、ハコのお客さんは出演者だよ。出演者のお客さんは、出演者自身が自分で集めてくれ」ということなのでしょうか。もちろん出演者自身にお客さんが付いていなければ先は無いのですが、しかしその出演者の頑張って集めたお客さんにとって「良いライブをやるための空間=ライブハウス」が不愉快なものであっては困るわけです。

また飲食店に例えてみましょう。
あなたの料理は最高です。味にも調理手法にも盛りつけにもこだわった数々の創作料理を生み出しました。料理を映えさせる食器選びにも余念はありません。もしミシュランの調査員が来たら3つ星が付いても不思議でないという自負があります。ただ店外には店名と「ランチ¥2000、ディナー¥3500~」としか書かれていない看板があるのみです。ランチで¥2000は高めですが質とコストを考えればこの値段もやむを得ません。
一応ホームページを作ってみました。コンテンツとして店内写真と地図と電話番号、それとオススメのメニューの名前を幾つか羅列してあります。それがどんな料理であるかなんて解説しません。料理は食べてナンボなので言葉で幾ら説明しても意味がないと思ったからです。
どんな経緯があってか分かりませんが、たまにお客さんがやってきます。それらのお客さんから口コミで来店する人もいるかもしれません – 何しろ料理は最高なのですから。
しかし店内の隅々には埃が積み上がり、テーブルには食べかすの染みが付いたままです。店員は気怠そうに突っ立ったまま席案内もしませんがあなたはそれで構わないと思っています。何故ならあなたには信念があるからです。すなわち料理人は料理で勝負するのが筋なのだから、客受けを狙った小賢しいサービスなどやるべきではない、ということです。
お客さんは適当に席を選んで座りました。もちろん上着掛けや荷物カゴなんて用意していません。さすがにメニューはあります。商品名を見てもそれがどんな料理なのかお客さんには理解出来ませんが、その必要もないとあなたは思っています。なぜなら料理は食べてナンボ以下ry。
お客さんは、とりあえず来たからには、といった風情で注文しましたが自分が何を注文したのかも分かっていない様子です。だんだん不機嫌になっているのが口調や佇まいから見てとれますがあなたは気にしません。一方お客さんの注文を聞いたあなたは、その時ちょうどドライアイが気になって目薬を差していたので聞こえなかったフリをします。手が空いたところで改めて注文を受けますが、あなたの態度を見たお客さんはさらに機嫌を損ねたようです。
その様子を見てあなたも不愉快になります。「ここは料理店なんだから実際に食ってみてから文句言えや!」と思います。同時に「俺の料理でその不機嫌面ひっくり返してやる」と考えます。無理解な客のようですがこちらにも料理人としてのプライドがあるので、料理の質を以て客を黙らせるのが筋だと思っているからです。
そしてお客さんは、いざ出て来た料理を口にして驚きます。唖然としながら、さっきまでの不機嫌さが嘘のように黙々と美味しそうに食べています。あなたはそれを見て上機嫌です。「それ見たことか」と得意満面です。あなたのプライドは守られ、自信を深めます。「やはり俺の料理は間違ってない」と。
ところがそのお客さんは二度と来店しませんでした。もしかしたら仕事の出張の際たまたま立ち寄っただけで、簡単に来れるところに住んでいないのかもしれません。
ただ気がかりなのは、満足そうに帰っていったお客さんの誰一人として、二度とは来なかったということです。お客さんの一人もいない店内をぼんやり眺めながら、あなたは呟きます。
「俺の料理は最高なのに、どうして誰もリピーターにならないんだろう」

これがライブハウスのプライドです。
ここで「料理店とライブハウスは全然違う業種なんだから同列に語ることが間違ってる」とか言う人は、まぁ、筋金入りの馬鹿なので放っておきましょう。きっと脳味噌の代わりにゲロか何かが詰まっているのでしょうから、それはもう勝手に潰れろとしか言いようがないです。

とはいえ今回のシリーズはダメ出しをすること自体が目的ではないのでまだ続きます。
今後はもっと建設的な話をするつもりです。

ライブハウスのプライド

ノルマの是非やライブハウス自身による集客努力についてしばしば議論されるようになり、また集客のための企業努力をするハコもちらほら現れ始めた昨今ですが、まだ業界全体の空気としては「何とかして時代の流れに抗ってやろう」みたいなハコも多いですし、また努力するつもりはあっても実際どこから手を付けていいのか分からないというハコも多いのではないか、という気もします。

なので今回から何回かに分けて、お客さんや出演者の立場で「どんなライブハウスなら興味を持つか」を考えてみます。

まず店の外観から考えたほうが良いように思います。最寄駅の駅名+店名の看板を立てただけで人が集まるなんてことは考えられません。この段階で分かるのは「そこがライブハウスである」ことだけです。店の看板と別に、その日のイベント名と出演者を立て看板に書いているハコは多いですが、それでもせいぜい「そういう名前の人たちが出演している」ことしか分かりません。

飲食店に例えて考えてみましょう。「ランチやってます」とだけ書かれた看板を見て、どんな料理があるのか全く不明なまま入店するお客さんは相当なチャレンジャーです。それでもまだ飲食店であれば、どうしても腹が減りすぎて何でもいいから食べたいけど他に店が見当たらない、という状況でお客さんがやってくることはあるかもしれません。しかし音楽ライブなんて、無くても即困るわけでもない趣味の分野でそのような看板を出していることは、普通に考えて「フラッとやってくるお客さんはいない」という前提で商売していることになります。

もちろん大音量を鳴らすライブハウスで外から内装や雰囲気が分かるようにするのは防音の関係で極めて難しいですし、またハコで扱うジャンルを完全に一本化してしまうのもリスキーなので、外観であまりイメージを固定させたくないという判断も分からないわけではありません。

ただせめてその日のイベントコンセプトであるとか、出演者それぞれがどんな音楽、或いはパフォーマンスをする人たちなのかぐらいの情報は載せておいて欲しいと思います。それで即お客さんがやってくるとは思いませんが、少なくとも通りかかった人が看板を見たときに「へぇ、ここはこういうイベントやる店なんだ」または「こういう人たちが出てるんだ」という印象を与えることは出来ます。

するとその人たちが知人、友人のバンドマンからライブに誘われた際には「そういやあの店って○○なイベントやってたな」という記憶を引っ張り出して、自分の持った印象とその誘われたライブを結びつけて考えることになります。つまり興味が強くなるわけです。もちろんそこで趣味が合わないと思ったら行かないでしょうが、行ってみてやはり趣味が合わなかったら次はないのだから同じことです。

また昔から不思議に思っているのですが、店内バーカウンターあたりでライブ映像を見れるようにモニターを用意しているハコは多いのに、それを店外、屋外は無理でもせめて受付で金を払う前の段階で見れるようにしないのは何故なのでしょう。音を出せないというならヘッドホンの一つや二つ用意すれば済むことではないかと。

テナントの構造上それが出来ない場合も多々あるのは承知してますが、それならUstやニコ生の配信環境を整えてどこでも見れるようにすればいいと思います。看板に「配信やってます」と書いてURLを併記することも出来るわけです。

まぁぶっちゃけスマホかタブレット、それとWi-Fiルータを持っていれば誰でも配信は出来るのですから「やりたい奴は自分でやれ」というのがハコ側の言い分かもしれませんが、しかし僕としては「何で出演者に集客努力を丸投げするの?」という立場をとっているのでそのぐらいはハコに用意して欲しいと思います。それで画質/音質が気にくわないという出演者がいるなら「じゃあバンドで良い機材揃えてください」と言うのは全く構わないのですが。一方で、音響や照明の設備がハコの売りになるのだとしたら「高音質・高画質で配信出来ます!」というのも立派な売りになるのではないでしょうか。

それとも「動画の生配信をやるとそれで満足しちゃって実際に足を運ぶ人が減る」とでも考えているのでしょうか。少なくとも僕は海外フェスの配信映像など観て良いライブだと思ったら「来日したらぜひ足を運びたい」と思うのですが、まぁ僕が少数派である可能性もあるわけですからそれは考え方の違いでもいいとしましょう。

ただいずれにせよ、中で何が行われているか分からないのにお客さんが「そのライブハウス」に興味を持ってくれるわけはないのですから、まずライブハウスがどういうところなのか、その店がどういうところなのかを可視化する努力をしたほうがいいのではないか、というところで次回に続きます。

個性にまつわるあれこれ(3)

予告通り「センス」の話です。
「センスが良い/悪い」とか「あいつは○○のセンスがある/ない」とかいった使い方で褒めたり貶したりするときによく使われる言葉ですね。ただあらかじめ言っておくと僕はこの言葉を安易に使うのが好きではありません。理由は、それが相手の反論を封じるための便利な言い訳として使われている場合がほとんどだからです。

意味を調べてみました。
「センス – 物事の微妙な感じや機微を感じとる能力・判断力。感覚。」(大辞林より)
なお語源はラテン語の「sentīre」という単語で、「感じる」という意味だそうです。

そう定義すると、
「これセンスいいよね」は「これ感じいいよね」となります。つまり「私これ好き」という個人的な好感について同意を求めているに過ぎません。
意地悪く言うなら「これを良いと感じる私の感じ方って素敵でしょ?」と言っていることになります。全く褒め言葉になっていないのです。貶す場合も同様で、「これセンス悪いよね」→「これ感じ悪いよね」→「これを悪いと感じる私の感じ方って正しいでしょ?」です。
いずれにしても本質的に「私を褒めて欲しい」ために使われる言葉であって、これが褒め/貶し言葉として普通に成り立っていることはいかにも日本的だなぁと残念に思うわけですが、結局ここで僕が何を言いたいかというと「センス」という言葉(或いは概念)をもって良し悪しを決めることは、自分の判断が常に普遍的で正しいということを前提としているため、他者との関係においてはほぼ役に立たないということです。

とまぁ偉そうに一席ぶってみたところで、僕にだって何かを見て「センスいいなぁ」と思うことはあるし、そういう感覚というか「センスのある/なし」というものの存在自体を否定するものではありません。ただそれが判断基準としてあくまで内的なものである以上、自分の表現を他者に問うにあたって「センス」を頼ることは「私が良いと感じて表現したものを多くの人もまた良いと感じるだろうと信じる」に留まってしまいます。
「それで何が悪いの?」と思う人も多いでしょうが、そのやり方は端的に言って宝くじを買うようなものです。それで実際に評価を得たところで「私が良いと感じて表現したものをたまたま多くの人が良いと感じた」わけですから、芸術的才能があったというよりは「運が良かった」と捉えたほうが妥当だと思います。また事実才能があって評価されたのだとしても、その才能に恵まれたこと自体「運が良かった」のですから。

それはさておき「センスがある」とはどういうことなのかと問われれば、「物事の微妙な感じや機微を感じとる能力・判断力」があるということですから、「思考をベースとしない洞察力に優れている」と言い換えることも出来ると思います。
ところで前回の話の中で「一部洞察力のある人を除いて~」というくだりを述べたように、「センス=思考をベースにしない洞察力」に優れている人は、その恵まれた洞察力によって思考のプロセスをショートカット出来るわけです。これがいわゆる「センスのある人」がよく言う「表現は思考じゃない、センスだ」の根拠になっていると思われます。

しかしそれは単なるショートカットであって「表現は思考じゃない」ということにはならず、ただセンスを用いて表現することに慣れている人たちが、馴染みのない方法論を否定しているに過ぎません。
先の論法を用いるなら「思考による表現をダメだと感じる私の感じ方って正しいでしょ?」です。もちろんその論拠に基づいて実際に優れた表現をしたときにはその表現自体が説得力をもたらしますが、ではそういった人たち全てが優れた表現を出来るかと言えば疑問が残りますし、またここには当然「そもそも誰にでも通用する優れた表現というものが存在するのか?」という問いも含まれます。そしてご存知の通り、現実には自称「センスのある」人たち同士でも「あいつはセンスがある/ない」みたいな話をするわけですから、やはりセンスという概念を作品評価、表現の良し悪しを語る上での客観的基準とすることは無理があると捉えるべきでしょう。

とは言っても、センスなるものに基づく評価がナンセンスであると断じたところで事実それを元に表現、作品作りをする人たちは大勢いるわけですから、いかにしてそれが表現の向上に寄与しているかも考えないわけにはいきません。正直「センスに自信のある人はそれで好きにやってくれ、そうでない人は頑張って思考を磨いてくれ」と言って終わりにしたいところなのですが、自称センスのある人たちの中にも現実にそう評価されない(単に一般的に評価されないという意味でなく、「センスがあると評価される人たち」にも評価されない)人たちがいるのでもう少し頑張りたいと思います。

では何故「センスがあると評価される人」と「センスがないのにあると勘違いしている(またはそう評価される)人」に分かれるのか、という点についてですが、おそらくその分かれ目は、まぁ皆さん予想していると思いますが「センスが『磨かれているか、いないか』」であると僕は考えます。磨くという言い方が出来る以上、当然それは後天的に向上しうるものです。言葉遊びをしているわけではなく、センスというものが生まれつき固定で死ぬまで磨かれもしなければ劣化もしない、などと考える人はさすがにいない…ですよね?
ともかく「センスがあると評価される人」の中に「センスを磨く努力」をしなかった人は滅多にいないはずです。逆に「センスがないのにあると勘違いしてる人」は、少なくとも僕の経験上では、その努力をほとんどしないケースが多いようです。
ではセンスを磨くための努力とは何でしょう?  おそらく多くの人は「センスが良いと感じる表現、作品に多く触れること、またそれが自分の血肉となるよう取り込んでいくこと」みたいなことを言うのではないでしょうか。つまり環境とインプットの取捨選択です。

ではここで前回の話にざっとでいいので戻ってみてください。
読んでの通り、センスを磨くための努力は、思考によって「違い」を生むための努力とほぼ同じです。というよりも、思考によるための努力の中にセンスを磨く努力が内包されているというべきでしょう。ただその努力の過程で、センスを頼る人は思考をショートカットして違いを生み、そうでない人は考察を重ねることで違いを生む、それだけのことだと僕は考えています。同じことを何度も繰り返し述べるようで申し訳ないですが。

さて先に述べた通り「センスを頼る人」の中で差が生まれてしまう場合のほとんどは「環境とインプットの取捨選択」という努力をする/しないによるものだと思うのですが、しかしその努力を同じぐらいにしてもなお差が生じる場合も多々あります。その理由を才能(それを全く否定するものではありませんが)という言葉で片付けるのは非常に楽でいいですが、僕としてはそんな曖昧かつ夢のないものに根拠を求めるより「最初に自発的な『環境とインプットの取捨選択』を行った時点で、既にセンスが磨かれているかどうか」、つまり生まれ持った才能ではなく、生まれ育った環境に求めたいと思います。この根拠は仮に才能の有無というものを認めたとしてもなお有効であるはずです。

さてセンスのある/なしを環境の問題、経験的領域によるものだとするなら、残念なことに生まれ育った環境、外的に与えられたインプットについて「センスのある/なし」を、最初の自発的な取捨選択を行った段階で判断することは事実上、出来ないということになります。言うなればその段階でセンスが磨かれているかどうか、「センスのある」環境で育ったかどうかは、運の問題です。
もちろん物心付いた頃からその環境が嫌いで、それを否定するようなインプットを選択し続けることでセンスを磨いた人、またその結果として磨かれたセンスを多くの人に評価される幸運な人もいるでしょう。「幸運な」というのは、その嫌ったもののほうが実は評価される「センスのある」環境であったことが後々明らかになる可能性が存在するからです。

しかしそうなると、生まれ育った環境の段階で不幸にも磨かれなかったセンス故に、自発的な選択においてもまた「センスの磨かれていないもの」を選び取ってしまう可能性も大いにあります。本人はセンスを磨いているつもりでも、実態としていつまでも磨かれない自分のセンスを愛でているに過ぎない場合があるわけです。センスを磨く努力をしてもなおセンスがないと評価される人というのは、才能よりむしろこのようなケースが多いのではないでしょうか。

さてそういう人は不運だったわけですが、しかし突破口はあります。センスという客観性のない基準を以て判断するから出口がないのであって、ならば客観的な物差しを用意すればいいことになります。つまり自分のセンスはとりあえず置いておいて、一般にセンスがあると評価されるもの、またセンスがあると評価されている人の評価するものをインプットし、そしてそれが評価される理由を考察すればいいわけです。当然それは自分のセンスが評価されない理由を考察することでもあります。

もし自分のセンスにおいてゴミのようにしか感じられない表現であっても、事実としてそれがあなた(別に僕でもいいですが)の表現より評価されているならば、それを表現した人はあなた(僕)よりセンスがあると一般に思われているのです。まずそれを認めるべきでしょう。それでもなおどうしても自分のほうがセンスがあると信じるのであれば、その立派なセンスによってゴミ(と自分が判断したもの)をアップグレードしてみせればいいのではないでしょうか。
そんなセンスのないことしたくない、一般にセンスがあると思われているほうが実際にはセンスがないのだ、などと強弁ところで、それを評価してくれる他者がいないのでは何の説得力もありません。何度も言いますが「これを良いと感じる私の感じ方って素敵でしょ?」では意味がないのです。
「時代が自分に追いついていない」とゴッホを気取るのは勝手ですが、僕としては「運が悪かった」で済ませることこそセンスのない判断であると思います。

また言うまでもなくこの方法論は「センスがあると評価されている人たち」においても有効です。幸いセンスをうまく磨いてこれた人たちであっても、そのアップデートを自らのセンスのみによって行うのは、やはり客観性がない以上せいぜい「当たりの多いくじを引き続ける」ようなものなのですから。

というわけで、表現に「違い」を生むにあたって思考は不可欠だと僕は考えます。センスが不要というのではなく、客観性のないセンス「のみ」を用いて表現にあたるのは危険だと言いたいのです。

この件は以上です。

個性にまつわるあれこれ(2)

前々回の続きです。

さてどのようにして表現に「違い」を生み出すかですが、これは以前にも述べた通りまず「自分が影響を受けたアーティストに、影響を与えたアーティストを掘り下げて数多く鑑賞する」のが最善だと考えています。なぜならそれはルーツに対しどのようにして、文字通り「違い」を与えていったかを遡って鑑賞することだからです。
さらにそれを補完する手段として「同じアーティストから影響を受けた、しかし自分に影響を与えていないアーティスト」を鑑賞するとなお良いでしょう。こちらは遡るというより、同じ川の上流から分かれた別の支流を覗いてみるようなものですね。同じルーツから全く別の「違い」が生まれる経緯を追う作業となります。

洞察力の高い人ならこの時点で「その流れの先に存在し得る表現」を発見或いは仮定し、トライすることになるでしょうが、そういうことの出来る人はおそらく一握りでしょう。ただ誰であっても見識は広がり、自分の未熟さを自覚することは確実かと思います。それはつまり自分のそれまでの表現に満足出来なくなり、より質の高い表現を目指すことに繋がっていくわけです。さらには「質の高い表現」のサンプルケースに数多く触れることにもなるわけであり、それらの引き出しが自分の表現の質を引き上げるのは自明です。

なおこの段階でそういうモチベーションが沸いてこない人はそもそも表現活動に向いていないと僕は考えます。もちろんやるやらないはその人の自由なわけで文句を言う筋合いは無いのですが、少なくとも「より良いものを目指す」つもりが無いのであれば他人にその評価を求めるのは余りに無責任ではないでしょうか。
また「量より質」とよく言われますが、そもそもある程度量をこなさないことには質の良し悪しを判断するすることも出来ません。理由は前章で述べたように、正当な作品評価には文脈やバックグラウンドへの理解が不可欠だからです。

さてもちろん一部洞察力の優れた人を除いてこの段階では単に「質を上げる」に留まり、「違いを生む」ことにはなりません。なのでさらにもう一歩掘り下げていきます。
前段でバックグラウンドへの理解と述べましたが、これは単にその表現手段への理解に留まりません。その作品が生まれた時代背景や民族性なども考慮に入れる必要があります。例えば70’sUKパンクロックについて考えるときには、レッド・ツェッペリンを筆頭とする複雑化したハードロックやビジネス色を強めた音楽業界への反発だけでなく、悪化の一途を辿っていた当時のイギリスの経済状況を考慮しないわけにいきません。

なぜなら当たり前のことですが、表現された作品の背後には、それを表現した作家、感情と思考のある生きた人間とその人生が存在する(した)からです。画家のセザンヌのように山奥で仙人じみた暮らしをしていたというならともかく、社会生活を営んでいる以上そこからの影響を一切排除することなど出来ません。余談ですがそのセザンヌにしたって同時代の友人であったモネと、その一世を風靡した印象主義への共感と反発から自分の表現様式を生み出したわけですし、またピカソがセザンヌを指して「我々現代(当時)の画家全ての父のようだ」と言ったのは有名ですね。なお19世紀末フランスを中心に花開いた西洋絵画の印象派ムーブメントと、ロックの70’sパンクムーブメントにはかなりの相似性があるので興味のある方は調べてみるのも一興です。
閑話休題。

さて表現のバックグラウンドへの理解のために時代背景その他を考慮するということは、その時代に生きた表現者の内面を考察することになるわけですが、ここまでを達成(もちろん完全な理解など不可能ですが、少なくとも自分なりに納得のいく見解を持つことが)出来れば「違い」を生み出すまであと一歩です。こんな言葉があります。

古人の跡を求めず 古人の求むるところを求めよ(松尾芭蕉)

簡単に言うと、昔の人の表現を再現することを目的とするのではなく、その表現を通じて達成しようとしたことを目的とせよ、ということですね。例えばニルヴァーナに憧れるというなら、その音楽をコピー、またそのアレンジによって「ニルヴァーナっぽい曲を作る」のではなく、「当時の社会状況や音楽シーンの姿を踏まえ、『なぜああいう音楽になったのか』を考えること、さらには『カート・コバーンが現代日本に生きてたらどんな音楽を作っただろうか』と考えながら作曲する」ことです。

「いやそんなこと言ったって似たような環境に生まれ、同じ音楽や漫画やドラマを鑑賞し同じ内容の勉強をして同じ遊びをし同じサービスでコミュニケーションを取り同調圧力の中で育った人間ばかりなんだから、いくら頑張ったって結局は同じようなものが出来るんじゃねぇの」と思うかもしれません。
しかし本当にそうでしょうか? 似たような環境で生まれ育ったあなたとその友人は、いつも同じようなことを考えているでしょうか? 同じものを鑑賞したら同じ感想を漏らすのでしょうか? もちろん同じことも大いにあるでしょう。また意見を交換した末に同意を得ることはあるでしょうし、同調圧力に屈しやむを得ず同じ感想を口にすることもあるでしょう。結果として同じ表現をすることは珍しくなくとも、しかしそこに至る経緯は人それぞれ「違う」でしょう。
つまり「違い」は、人それぞれの思考のプロセスにあります。

そして思考のプロセスの「違い」が「個性とみなされるもの」だとするならば、要するに個性とはその思考様式を形作った生まれや育ち、家族や友人を含めた「自分を取り巻く環境」のことになります。そしてその環境の多くは、おそらくそれが合理的であると判断したからでしょうが、実のところ自ら選択したものです。もちろん家柄や家庭環境は選べませんが、いい歳して親の買い与えたものしか鑑賞しない、親兄弟の判断に全て盲目的に従うなどということは滅多にないでしょう。なお顔や身長を始め遺伝的形質をもって「生まれ持った個性」と言うことは確かに可能ですが、そこまで追及すると科学の領域になってくるのでここでは深追いしません。

話を戻し、そうなると「違い」のある表現、個性的とみなされる表現とはいわゆる「生まれ持ったセンス」などという曖昧な何かによってではなく、環境とインプットの選択、そしてそこから事後的に得られる思考によって生み出されると考えるべきでしょう。インスピレーションという言葉もありますが、そんなものは無数のインプットの中から何らかの組み合わせが何かしら切っ掛けを得た際に浮かび上がってくるものに過ぎないので、そもそもインプットの選択の段階で思考のプロセスを踏んでいる以上、間接的には思考の産物なのです。

さてこう言うとすぐ「そんな頭でっかちな表現は本物じゃない」とか言う人が出てきそうですが、では本物の表現とは何でしょうか? 定義の出来ない「本物」について語るのはナンセンスと言うべきです。逆に偽物と言えばいわゆる「丸パクリ」がすぐ思い浮かびますが、丸パクリをするということは端的に言って思考を放棄することなのでここでの見解とは全く相容れないものですし、まず個性にまつわる問題について論じている中でパクリに言及するのも適当とは思えません。

そろそろまとめに入りたいと思います。
個性的な(とみなされる)表現とは「違い」のある表現で、その違いは各々の思考のプロセスに根ざしています。思考の様式を形作るのは環境とインプットの取捨選択であるわけですから、一番簡単なのは多くの人が避けるものを積極的に取り込んでいくことでしょう。その意味ではそれを個性と呼ぶことも出来るわけですが、一方で表現に対する正当な評価には文脈やバックグラウンドへの理解が不可欠なのですから、そこで仮に賞賛を浴びたとしてもなおそれは原理的に不当な評価であると考えるべきです。すると表現に対し正当な評価を求めながらなお違いを生むためには、他者からの理解、普遍性を意識しながら他人より多くのインプットをすることが必要となります。量より質を選ぶのではなく、量の中から質を選ぶのです。
もちろんただインプットするだけでは不充分です。インプットの度に作品や作者の背景を想像し、考察し、比較検討してこそそれらは自分の体験、実感を伴った環境の一部となります。それらの行為はまた思考のプロセスそのものを訓練し、磨き上げていくことでしょう。
そのようにしてあなた自身の手によって洗練された思考の在り方、それがあなたの「違い」、普遍性と矛盾しない個性であると結論したいと思います。

おまけ-

「芸術家というものは、
自分自身の中に万人に共通する何かを見出さねばならないし、
また、それを自分以外の人々にも通用する言葉に置き換える事のできる人間を言う」(Bill Evans)

と、終わったかのような雰囲気ですがあと1回続きます。
読んでくれた多くの人が頭の中に思い浮かべたであろう「センス」という言葉にも言及したいので。

初夏の風物詩になってるあれの件

前回の話が終わってないですが急遽予定を変更していきます。

毎年この時期になると「出れんの!? サマソニ!?」でバンドマンのTwitterやらFacebookやらその他諸々が盛り上がるわけですが…
同時に一般投票期間が終わるとすかさず「500位以下にも良い音楽があるので目を向けてください」とか「そもそもシステムがおかしい」とか「人気と音楽の良し悪しは別」とか「なんであんなクソが上位に」とか言い出す人たちがいるわけで。

あのさー。
もう今回丁寧語とか面倒だわ。

終わってからそんなこと言うぐらいならそもそも参加すんなよ。
いやまぁ500位台でギリギリ落ちたとかならそりゃあ悔しいだろうし言いたくなるのもわかるからそのへんの人たちは一応置いとくとして。
投票期間10日間で15票とかの人たちは一体何を考えて参加したのかと。ソロだとしてもTwitterとFacebookとGoogle+のアカウント作って毎日投票すれば自分だけで30票じゃん。バンドならメンバーだけで100票前後は確実に入る。
さらに言えば一次審査が人気投票だってのは最初からアナウンスされてるんだから、お客さんが1人もいないような人に勝算がゼロなことはもともと明らかだし。
っつーかもっと言えば、審査員の立場からしたら500組も真面目に試聴するのって一体どんだけの手間と負担だと思ってんだ。

ガチで出場目指してるわけじゃなく宣伝の一環として登録した人も多いだろうけど、それにしたってせっかく宣伝のために登録したのにその登録したことを宣伝しないんじゃあからさまに行動が矛盾してるだろうと。
もちろんフォロワー/フレンドのタイムラインを荒らして嫌われたくないからゴリゴリの宣伝したくないって気持ちも分かる。でもだとしたら、打つべき手、考えるべきことは宣伝しないことじゃなくて「どうしたら嫌われずに宣伝できるか」なわけよ。
まぁやり方関係なく宣伝ってだけで露骨に嫌がる人たちは少なからずいるし、そういう人たちにdisられるのはもう諦めるしかない。そうせざるを得ないシステムがおかしいと言うなら、そのシステムにわざわざ参加することこそおかしいんだよ。
参加して負けてから文句を言うんじゃなくて、参加せずに「こんなシステムじゃやる気になんねぇよクソが」ってみんなで運営にメールでも送ればいいんだよ。参加者いなくて盛り上がらなくなったら困るのは運営なんだから。

ここ大事だからもう一度言うわ。

参加者が集まらない、盛り上がらないのが運営にとって一番困る。
だから運営に抵抗したいなら、参加しないのが最善。
理想は、参加者が集まらない中、運営へのdisばかりが各種SNSで超盛り上がってること。
それで少ない参加者の中からゴミみたいなバンドが勝ったっていいじゃん。どうせそんなの信者と友達しか観に行かないし参加者が少なければ知名度も上がらないんだから運営以外誰も困らない。

本当に気にくわないなら潰しちゃえばいいんだよ。
でもそうしないってことは結局、文句言ってる連中ってのは「夢を与えてくれる企画自体は潰れて欲しくない、でも『人気のない自分を勝たせてくれる』システムになって欲しい」ってことだろ? アホすぎて耳から鼻血出るわ。

で、現在のシステムで勝ち上がった人たちってのはその宣伝のリスクやデメリットも当然のものとして受け入れてるからこそ勝ち上がれたわけ。あの仕組みが全面的に良いものだと思って参加してる人なんてたぶん1人もいないよ。それこそ運営も含めてね。
いわゆる大人の事情も含めて多種多様千差万別の思想信条価値観利害関係を持った人間が集まって一つのイベントを作ってるんだから、その誰にとっても納得のいく完璧なシステムなんて作れるはずがないんだよ。そんなんもし出来るならとっくに世界平和が訪れとるわ。だから参加者に出来ることは、そういうものだと割り切った上で、その仕組みの中で最善を尽くすことだけ。
何度でも言うけどそれが嫌なら参加しなきゃいい。

んで実はこっからが重要なんだけど。
あのね、ロックだろうがJpopだろうがHipHopだろうがエレクトロニカだろうが、細かいジャンル問わず「売れる(支持を集める)ことを一つの指標としてやってる音楽」ってのは全部広義では「ポップミュージック」なの。大衆音楽なの。
なぜかと言うと前回のブログでちらっと書いたように、作品評価のためにはある程度共通の文脈、バックグラウンドが必要で、だとすると音楽の質だけで大衆に評価されるのは不可能なわけ。すなわち本当に純粋に音楽の質だけで評価されてそれが支持を集めるためには、その支持する人全てが古今東西あらゆる音楽に精通している、少なくともその作品を作った人と同等以上に理解している必要があるから。そしてもちろんそんな人間はほとんど(場合によっては全く)存在しない。仮にいたとしてもそれこそ「分かる奴にしか分からない」のであって、バックグラウンドも定かではない不特定多数に対し評価を問うならばその時点で既にポップミュージックとしての呪縛から逃れられないんだよ。
端的に言うと、ポップミュージックにおいて音楽の良し悪しなんて二次的なものに過ぎない。

音楽の良し悪しじゃないならポップミュージックの評価軸って何なのさ?って思うよね?
さっさと答えを言うと、ポップミュージックの目的は「ポップカルチャーのアップデートを音楽によって行うこと」であって、良い音楽を作ることじゃない。ただ一方で、そのアップデートを担うにあたって「音楽が優れているほうが望ましい」わけだ。音楽そのものによって喜ばれたほうが当然、その価値観の拡散には有利なんだから。
これは逆に言うと、アップデートを試みられた価値観自体に大きな魅力があれば、音楽そのものが大したことなくても拡散し得るってこと。こう考えればいまだに地下アイドルもボカロ(歌い手含む)も理解出来ない人たちにも通じるかな? まぁ僕は音楽的にも大したもんだと思ってるけど。同時にこれが、重複してるかもだけど、音楽の力だけで勝とうとしてる人たちがポップのフィールドで負け続ける理由なわけ。音楽「だけ」が良くてもポップミュージックとしては通用しないんだよ。

ここでサマソニの件に還って、宣伝しても票が集まらなかった人たちっていうのは、仮に音楽が素晴らしかったとしても「ポップカルチャーのアップデートに影響を与えない音楽」と判断されたってわけ。意識的にしろ無意識的にしろね。
だから音楽の力「だけ」で勝負したい人たちはとっととポップミュージックのフィールドから退場したらいい。それが嫌なら、自分の音楽が「ポップカルチャーの何をアップデートし得るのか」を考えてくれ。

もちろん「ポップカルチャー」としての評価軸と「音楽」としての評価軸の二つがあって、その事に多くの人が気づいていないこと、さらにオーディエンスの多くは前者で評価し、しかしミュージシャンの多くは後者での評価を望んでいることは不幸な現象だと思うよ。
でも現実にそうなんだからそれを踏まえてやるしかないじゃん。
あくまでポップカルチャーのフィールドで勝負したいのであれば、せめてその「アップデート」が「ダウングレード」にならないよう努力するしかないんだよ。

以上ですわ。

次回はちゃんと前回の話の続きをやります。

個性にまつわるあれこれ

唐突ですが僕は、生まれ持っての個性というものをほとんど信用していません。

それが存在しないとまで言うつもりはありませんが、表現活動においていわゆる個性と呼ばれるものがプラスに働くことはごく稀だという印象なのです。また個性というものについて、世間一般で言われる解釈についても多いに疑問があります。

まず基本的に僕は「他人が持っていないものを出す」「他人がやっていないことをやる」というのが個性の表現であるとは思いません。何故ならそれらは「他人が知らなかったことを知っている」「他人が避けてきたことをやる」がほとんどで、たいていの場合は単に勉強量の問題であったり、モラルハザードを起こすことによる話題作りに過ぎないからです。

そもそも似たような環境に生まれ、同じ音楽や漫画やドラマを鑑賞し同じ内容の勉強をして同じ遊びをし同じサービスでコミュニケーションを取り同調圧力の中で育ちながら、いざ表現の場に立った時に突然「もっと自分ならではのものを出せ!」と言われても無理があると思います。

さらに根本的な障害があります。もしその表現が本当に他の誰も持っていない100%オリジナルだとするなら、そこには表現者と鑑賞者に共通のバックグラウンドが全く存在しないことになります。存在するならそれは共通のものから(無意識的であっても)影響を受けている以上、既に100%のオリジナルとは呼べないからです。
例えば宇宙人が一人あなたの前にやってきて彼にとっての芸術作品を表現したとしましょう。もちろん言語を含め一切コミュニケーションの手段は存在しません。すると当然、あなたにとっては表現の良し悪しどころか、まずそれが作品であることすら判断のしようがないわけです。
それでもなお好悪の感情を抱くことは出来るかもしれませんが、一切の文脈やバックグラウンドを抜きにプリミティブな好悪のみで判断するのが作品評価のスタンダードであるとするならば、そもそも作品に個性の有無を問うことが不当であるし、また評論家などという職業が成立するはずもありません。

つまり表現活動というものを、単なる好悪を超えて鑑賞するためにはある程度の共通認識を必要とする以上、それが完全なオリジナルであることは原理的に不可能です。
ならばそれを鑑賞するための文脈や方法論から自分で作ってしまえばいい、という考え方も当然出てくるわけですが、そうなると表現そのものより文脈の完成度や解釈の大胆さのほうが評価の対象になってしまうという齟齬が生じ、また鑑賞するためのハードルが劇的に上がる(何しろ作品や作家ごとにそのバックグラウンドについて勉強しなければならない)ため、大衆文化としては成り立たない、専門家のためだけのものとなるわけです。このあたりは現代アートについて多少の知識がある方ならすんなり理解できるのではないでしょうか。

というわけで、純度の高すぎるオリジナリティというのはむしろ表現活動とその鑑賞を(少なくとも大衆文化において)阻害するものであるならば、個性的な(と評価される)表現とは「鑑賞者の理解あるいは共感を前提としつつ、その予測の範囲を超えるもの」という極めて難易度の高いものになるでしょう。またこれは同時に冒頭で「個性なるものがプラスに働くことは稀」と述べた理由でもあります。

すると個性とは(もちろん生まれ持った何かでそれが出来るなら文句はないのですが)、いかに鑑賞者の予測を超えるかという知性の問題となり、またそのためには不特定多数の鑑賞者を理解、あるいは最低限そのための努力をする必要がある以上、ターゲティングやマーケティングといったビジネス論や統計の問題になってしまいます。

みたいなことを言っていると誤解を招きそうですが、僕は個性の表現のためにビジネスの勉強をしろなどと言いたいわけではなく、少なくとも日本では、表現活動において個性を第一義に置くこと自体がナンセンスだと言いたいのです。

というのも、冒頭のほうで述べたように同調圧力の中で育つ日本人においては、仮に生まれ持った個性とやらがあったとしてもその大部分を成長過程で失うことを宿命づけられているからです(日本でなくとも、社会生活を営む以上ある程度それは不可避でしょう)。またそれに抵抗する人たちもしばしば見かけますが、まさに今抵抗と書いた通り、自然なままで個性を残すというよりは積極的に誇張し、言ってしまえばむしろ不自然さを強く感じる過剰にエキセントリックな表現や、下手すると単なる我が儘でしかないことのほうが圧倒的に多いよう見受けられます。そしていずれにしても人為が加わるなら、それを生まれ持った個性と呼ぶのは無理があると僕は考えています。

すると生まれ持った個性による優れた表現というものがあるとするなら、それは「抵抗ではなく社会生活の中で自然に失われるに任せながらなお残ったものによる、しかも鑑賞者に共感を得ながらその想像を超えるもの」ということになります。そういう表現が存在しないとは言いませんが、「自分はそういうものを作っている」と自信を持って言える人はほとんどいないのではないでしょうか。もちろん僕はそんな大それたことは言えません。

なお「そう言える人だけが表現活動に携わるべきだ」という意見もあるかもしれませんが、大衆文化の大衆文化たる所以は大衆が表現とその鑑賞の両方に携われることにあると考えているので僕は賛同しません。

とはいえ、誰もが同じ表現ばかりするようでは面白くないのも事実です。なので次回は大衆文化であることを前提に、生まれ持った個性でもなく、過剰さによるものでもなく、いかにして表現に「違い≒個性とみなされるもの」を生み出していくかについて考えたいと思います。

なお「声がものすごく特徴的である」とか「指がめちゃくちゃに長くて他人に押さえられないコードを使える」とか身体能力に基づくものは、個性というより才能の問題と捉えているのでまた別の機会に述べようと思っています。悪しからず。

「歌う」ということ(2)

予告通り今回はボーカルに留まらず「歌うということ」について考えていきます。

前回「ある意味で正確さを欠いた歌を、魅力的に聴かせる」と述べました。
しかしそうなれば、疵を持った歌がなぜ人間にとって魅力的に響くのかを考えなければなりません。つまり前回述べた「正確さの外側」には、いったい何があるのか?ということです。

先に個人的な見解を述べてしまうなら、「歌う」とは単に時間軸に沿って音を並べることではなく「連なった音に意味を持たせること」ではないかと考えています。つまりこの意味においてメロディラインを声に出す(奏でる)だけでは歌ったことにはならず、最低限「そのメロディである動機」が伴わなければならない、ということになります。それがどれほど美しいメロディであったとしても「美しいメロディを声に出した」に過ぎず、「美しい歌を歌った」ことにはならない、と僕は思うわけです。

なので余談ですが、ボカロ曲においては作曲者にとってそれが歌であったとしても、いかに調教が上手かろうとボーカロイド自体は「歌っていない」という立場を僕は取りたいと思います。よって僕は「ボカロは歌じゃない」という意見は否定しません。一方過去にも述べた通り「歌として扱われる」ことも否定しませんが。

話を戻して、正確さを欠くことによって新たな意味がもたらされた場合、もしくは何らかの動機をもって正確さを欠いた場合においてそれが魅力的に響く、ということの典型的な例としてはブラックミュージック由来のいわゆるブルーノート、またギタープレイにおけるクォーターベンドなどがあります。
しかしご存知の通りそれらが常に機能するわけではありません。理論的なアプローチであれ感覚的なものであれ、或いは好きなミュージシャンへの憧れであれ、プレイヤー自身に「そう歌う動機、もしくは必然性」、もっとくだけた言い方をすれば、楽曲やメロディに対する「ふさわしさ」が伴わなければ、それは魅力的な歌にはならないのだと僕は考えます。

そしてこれは超絶技巧を売りにした歌(演奏)がしばしば非常につまらなく聞こえる理由でもあります。長年、数多くの音楽に触れていれば「お前が巧いことだけは良く分かった」と言いたくなる音楽に出会った経験は多くの人にあるのではないかと思います。
極めて技巧に優れ表現力にも長けていながらなお「つまらない」プレイというのは、結局それが「楽曲にふさわしい意味を持たせること」を出来てないからではないでしょうか。まぁプレイヤーの演奏技量そのものを楽しむ、という音楽の楽しみ方も全面的に否定はしませんし、その「ふさわしい意味」をもたらすにあたって充分な技量を備えている必要はもちろんあります。しかしその楽曲を選んだ理由、そのフレーズや歌い方である意味が感じられない歌(演奏)では、その力量すらもかえってあざとく感じられるように僕は思います。

ということから、「正確さの外側」にあるものとは「その音楽が、その形として存在する意味」であると僕は主張したいと思います。当然ながらあえてシステマティックに歌うことによって意味づけを為す場合もあり得るでしょうし、また正確さの外側にある意味を、卓越した技量を持って正確に表現するということもあるでしょう。前回少し触れた「ヘタウマ」というのも、その意味を表現する能力において「巧い」のかもしれません。
そして正確さの外側を歌うことが音楽に意味を与えるのだとすれば、しばしば言われる「音楽に命を吹き込む演奏」というのも単にプレイヤーのエゴや自己主張を押し出すことではなく、それらを通じて音楽に意味を持たせる、すなわち「歌わせる」ことだと言えるでしょう。

そう捉えると「歌う」或いは「歌わせる」ということには、単に楽曲をプレイするということを超えた意味が現れてきます。つまり作曲・アレンジ段階での各パートのフレーズやコード選び、構成の考え方やノリ作りなども、音楽に意味を与える行為として広義においては「歌う(歌わせる)こと」となるわけです。
なのでここではそれらの音楽行為そのものを「人間ならではの歌」と結論づけたいと思います。

またさらにこうして突き詰めると、歌の良し悪しとはボーカリストの問題どころか楽器演奏の問題すら超えて、音楽の良し悪しそのものと密接に関係していることになります。
今回の内容は少し抽象的に過ぎるかもしれません。しかしこれから良い音楽を作りたい、演奏したいと思う方は、その演奏、アレンジ、さらには楽曲そのものを含め、その音楽が「歌っているか」さらには「どのように歌っているか」と意識しながら取り組んで欲しいと僕は願っています。

音楽の良し悪しを決めるのはその意味に思いを馳せることの出来る人間である以上、音楽を美しく歌わせるのもまた、その美しさに意味を与えることの出来る人間なのですから。

この件は以上です。

「歌う」ということ

バンドマンでありながらたびたびボカロを推奨している僕ですが、別にボカロが人間のボーカルを駆逐するとは思っていません。
むしろ最終的には、ボカロが人間の代役になれないことが証明されると考えています。
まぁテクノロジーを担う方々からすればそれは楽観的な見方と思うかも分かりませんが、少なくとも現時点で僕はそう思っています。

一方で、プログラムが人間に近い歌(のようなもの)を鳴らせるようになったことで、機械のようにしか歌えないボーカルの価値が下がることは確実です。
「機械のようにしか歌えない」というのは、正確なピッチ、テンポキープ、広い音域、そういうシステマティックな部分にしか売りがないボーカル、という意味です。そういう種類の正確さであれば、それこそプログラムにやらせたほうが得意に決まっているのですから。

なるほど人間のほうが融通は利くし面倒な入力の手間も省けるのは確かです。しかしボカロが実用化済みのテクノロジーである以上その進化は単に時間の問題と考えるべきでしょう。スマホにダウンロードしたAndroidアプリでちょっとした空き時間に歌メロを作成し、クラウドでPCと共有して細かい作業は後で…そんな時代が数年後に訪れたとしても何ら驚くべきことではありません。
さらに言えば、鼻歌で作ったメロディを楽譜に起こしてくれるアプリなんてものが既にある以上、こういった楽曲制作の手間を簡略化してくれる技術が今後どんどんボーカロイドエディタに導入されていくと考えるのが自然です。

つまり「ボカロに歌わせる」ことの敷居がどんどん下がっていくのは必ず訪れる未来なので、人間のボーカリストとしては「ボカロに出来そうにないことは何か」を考え、取り組んでいくべきでしょう。
前置きが長くなりましたが、これが今回の主題です。

具体的には何があるでしょうか。

・必ずしも正確ではない、人間の演奏に合わせて歌うこと。
これは難しいでしょう。精度を問わなければある程度追随する技術は可能かもしれませんが、人間同士のプレイではしばしば相手の呼吸に合わせたりアイコンタクトなどによる即興が生まれたりするし、クセの分かる相手とプレイする際にはある種「先読み」のようなものでノリを作る場合もあります。それこそジャズのフリーセッションなどにおいては、そういった能力に長けてないとそもそも音楽として成立させることすら難しかったりします。

・感情を込めて歌うこと。
これは作り手の技術によって「演技させる」ことは可能かもしれません。しかし同じ感情を込めて歌おうとしても、その時の気分や環境、体調などに左右されるのが人間です。なので「込めたい感情を、正確に込めて」歌うことはむしろ「人間のように感情を込めて」歌うことにはならないわけです。そのような揺らぎをプログラムに(しかも人間が聴いて心地良いように!)持ち込むのは、絶対に不可能とは言わないまでも相当に難しいのではないでしょうか。少なくとも感情なるもののなんたるかさえ解明されたと言えない現在においては、ちょっと目処が立ちそうにありません。

他にも例は挙がりそうですが、結局のところ「ある意味で正確さを欠いた歌を、魅力的に聴かせる」こと、これが「人間ならではのボーカル」の目指すべきことなのではないでしょうか。

もちろん正確に歌う必要がないという意味ではありません。ピッチもリズムも良いに越したことはないですし、例えばクラシックの声楽などにおいては技術的にそこがクリア出来てなければスタートラインにも立てないでしょう。
しかしここで言いたいのはそういうことではなく、「人間が歌う意味は、正確さの外側にある」ということです。これは高い技術が当然のものとして要求される声楽やジャズにおいても同様のはずです。
ポップミュージックにおいても、とりわけロック系に顕著ないわゆる「ヘタウマ」の面白さというのは、技術の未熟さを補って余りあるほど「正確さの外側」の魅力を追求していることにあると思います。

よく「下手でも自分らしさが出てればいい」みたいな発言を聞きますが、これは多くの場合勘違いで、その「自分らしさ」に魅力がなければただの下手クソに過ぎないわけです。別の稿でも述べましたが、「オリジナルであること」それ自体に価値があるのではなく、そこに替えの利かない魅力があればこそのオリジナルです。

ではどうやって「替えの利かない魅力」を生み出すかですが、これはこの稿の終盤で述べたように「その音楽がなぜその形でなければならない(その形であるべきな)のか」、この場合「なぜそう歌わなければならない(そう歌うべきな)のか」という意思や信念、価値観や哲学が反映されていることが必要なのではないか、というのが僕の見解です。

そんな小難しいこと考えなくとも良い歌を歌える優れたボーカリストがたくさんいることも承知していますが、そういった人たちにも一度ぐらいはこの件について考えてみて欲しいものです。

ただ歌うのが楽しいだけならカラオケに行けばいいのですし、オリジナルソングで歌いたいだけならスタジオでやればいいのです。人前で表現の是非を問う以上、自分の表現がどんなものであるかを自覚する必要はあると僕は考えています。
もちろんこれはボーカルに限らない話になるわけですが、またその一方で「フレーズを歌わせる」とよく言うように、「歌うということ」は実はボーカル以外のパートにおいても大事な問題です。

なので次回はボーカルに留まらない範囲に踏み込んで考えていきたいと思います。