個性にまつわるあれこれ(2)

前々回の続きです。

さてどのようにして表現に「違い」を生み出すかですが、これは以前にも述べた通りまず「自分が影響を受けたアーティストに、影響を与えたアーティストを掘り下げて数多く鑑賞する」のが最善だと考えています。なぜならそれはルーツに対しどのようにして、文字通り「違い」を与えていったかを遡って鑑賞することだからです。
さらにそれを補完する手段として「同じアーティストから影響を受けた、しかし自分に影響を与えていないアーティスト」を鑑賞するとなお良いでしょう。こちらは遡るというより、同じ川の上流から分かれた別の支流を覗いてみるようなものですね。同じルーツから全く別の「違い」が生まれる経緯を追う作業となります。

洞察力の高い人ならこの時点で「その流れの先に存在し得る表現」を発見或いは仮定し、トライすることになるでしょうが、そういうことの出来る人はおそらく一握りでしょう。ただ誰であっても見識は広がり、自分の未熟さを自覚することは確実かと思います。それはつまり自分のそれまでの表現に満足出来なくなり、より質の高い表現を目指すことに繋がっていくわけです。さらには「質の高い表現」のサンプルケースに数多く触れることにもなるわけであり、それらの引き出しが自分の表現の質を引き上げるのは自明です。

なおこの段階でそういうモチベーションが沸いてこない人はそもそも表現活動に向いていないと僕は考えます。もちろんやるやらないはその人の自由なわけで文句を言う筋合いは無いのですが、少なくとも「より良いものを目指す」つもりが無いのであれば他人にその評価を求めるのは余りに無責任ではないでしょうか。
また「量より質」とよく言われますが、そもそもある程度量をこなさないことには質の良し悪しを判断するすることも出来ません。理由は前章で述べたように、正当な作品評価には文脈やバックグラウンドへの理解が不可欠だからです。

さてもちろん一部洞察力の優れた人を除いてこの段階では単に「質を上げる」に留まり、「違いを生む」ことにはなりません。なのでさらにもう一歩掘り下げていきます。
前段でバックグラウンドへの理解と述べましたが、これは単にその表現手段への理解に留まりません。その作品が生まれた時代背景や民族性なども考慮に入れる必要があります。例えば70’sUKパンクロックについて考えるときには、レッド・ツェッペリンを筆頭とする複雑化したハードロックやビジネス色を強めた音楽業界への反発だけでなく、悪化の一途を辿っていた当時のイギリスの経済状況を考慮しないわけにいきません。

なぜなら当たり前のことですが、表現された作品の背後には、それを表現した作家、感情と思考のある生きた人間とその人生が存在する(した)からです。画家のセザンヌのように山奥で仙人じみた暮らしをしていたというならともかく、社会生活を営んでいる以上そこからの影響を一切排除することなど出来ません。余談ですがそのセザンヌにしたって同時代の友人であったモネと、その一世を風靡した印象主義への共感と反発から自分の表現様式を生み出したわけですし、またピカソがセザンヌを指して「我々現代(当時)の画家全ての父のようだ」と言ったのは有名ですね。なお19世紀末フランスを中心に花開いた西洋絵画の印象派ムーブメントと、ロックの70’sパンクムーブメントにはかなりの相似性があるので興味のある方は調べてみるのも一興です。
閑話休題。

さて表現のバックグラウンドへの理解のために時代背景その他を考慮するということは、その時代に生きた表現者の内面を考察することになるわけですが、ここまでを達成(もちろん完全な理解など不可能ですが、少なくとも自分なりに納得のいく見解を持つことが)出来れば「違い」を生み出すまであと一歩です。こんな言葉があります。

古人の跡を求めず 古人の求むるところを求めよ(松尾芭蕉)

簡単に言うと、昔の人の表現を再現することを目的とするのではなく、その表現を通じて達成しようとしたことを目的とせよ、ということですね。例えばニルヴァーナに憧れるというなら、その音楽をコピー、またそのアレンジによって「ニルヴァーナっぽい曲を作る」のではなく、「当時の社会状況や音楽シーンの姿を踏まえ、『なぜああいう音楽になったのか』を考えること、さらには『カート・コバーンが現代日本に生きてたらどんな音楽を作っただろうか』と考えながら作曲する」ことです。

「いやそんなこと言ったって似たような環境に生まれ、同じ音楽や漫画やドラマを鑑賞し同じ内容の勉強をして同じ遊びをし同じサービスでコミュニケーションを取り同調圧力の中で育った人間ばかりなんだから、いくら頑張ったって結局は同じようなものが出来るんじゃねぇの」と思うかもしれません。
しかし本当にそうでしょうか? 似たような環境で生まれ育ったあなたとその友人は、いつも同じようなことを考えているでしょうか? 同じものを鑑賞したら同じ感想を漏らすのでしょうか? もちろん同じことも大いにあるでしょう。また意見を交換した末に同意を得ることはあるでしょうし、同調圧力に屈しやむを得ず同じ感想を口にすることもあるでしょう。結果として同じ表現をすることは珍しくなくとも、しかしそこに至る経緯は人それぞれ「違う」でしょう。
つまり「違い」は、人それぞれの思考のプロセスにあります。

そして思考のプロセスの「違い」が「個性とみなされるもの」だとするならば、要するに個性とはその思考様式を形作った生まれや育ち、家族や友人を含めた「自分を取り巻く環境」のことになります。そしてその環境の多くは、おそらくそれが合理的であると判断したからでしょうが、実のところ自ら選択したものです。もちろん家柄や家庭環境は選べませんが、いい歳して親の買い与えたものしか鑑賞しない、親兄弟の判断に全て盲目的に従うなどということは滅多にないでしょう。なお顔や身長を始め遺伝的形質をもって「生まれ持った個性」と言うことは確かに可能ですが、そこまで追及すると科学の領域になってくるのでここでは深追いしません。

話を戻し、そうなると「違い」のある表現、個性的とみなされる表現とはいわゆる「生まれ持ったセンス」などという曖昧な何かによってではなく、環境とインプットの選択、そしてそこから事後的に得られる思考によって生み出されると考えるべきでしょう。インスピレーションという言葉もありますが、そんなものは無数のインプットの中から何らかの組み合わせが何かしら切っ掛けを得た際に浮かび上がってくるものに過ぎないので、そもそもインプットの選択の段階で思考のプロセスを踏んでいる以上、間接的には思考の産物なのです。

さてこう言うとすぐ「そんな頭でっかちな表現は本物じゃない」とか言う人が出てきそうですが、では本物の表現とは何でしょうか? 定義の出来ない「本物」について語るのはナンセンスと言うべきです。逆に偽物と言えばいわゆる「丸パクリ」がすぐ思い浮かびますが、丸パクリをするということは端的に言って思考を放棄することなのでここでの見解とは全く相容れないものですし、まず個性にまつわる問題について論じている中でパクリに言及するのも適当とは思えません。

そろそろまとめに入りたいと思います。
個性的な(とみなされる)表現とは「違い」のある表現で、その違いは各々の思考のプロセスに根ざしています。思考の様式を形作るのは環境とインプットの取捨選択であるわけですから、一番簡単なのは多くの人が避けるものを積極的に取り込んでいくことでしょう。その意味ではそれを個性と呼ぶことも出来るわけですが、一方で表現に対する正当な評価には文脈やバックグラウンドへの理解が不可欠なのですから、そこで仮に賞賛を浴びたとしてもなおそれは原理的に不当な評価であると考えるべきです。すると表現に対し正当な評価を求めながらなお違いを生むためには、他者からの理解、普遍性を意識しながら他人より多くのインプットをすることが必要となります。量より質を選ぶのではなく、量の中から質を選ぶのです。
もちろんただインプットするだけでは不充分です。インプットの度に作品や作者の背景を想像し、考察し、比較検討してこそそれらは自分の体験、実感を伴った環境の一部となります。それらの行為はまた思考のプロセスそのものを訓練し、磨き上げていくことでしょう。
そのようにしてあなた自身の手によって洗練された思考の在り方、それがあなたの「違い」、普遍性と矛盾しない個性であると結論したいと思います。

おまけ-

「芸術家というものは、
自分自身の中に万人に共通する何かを見出さねばならないし、
また、それを自分以外の人々にも通用する言葉に置き換える事のできる人間を言う」(Bill Evans)

と、終わったかのような雰囲気ですがあと1回続きます。
読んでくれた多くの人が頭の中に思い浮かべたであろう「センス」という言葉にも言及したいので。

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初夏の風物詩になってるあれの件

前回の話が終わってないですが急遽予定を変更していきます。

毎年この時期になると「出れんの!? サマソニ!?」でバンドマンのTwitterやらFacebookやらその他諸々が盛り上がるわけですが…
同時に一般投票期間が終わるとすかさず「500位以下にも良い音楽があるので目を向けてください」とか「そもそもシステムがおかしい」とか「人気と音楽の良し悪しは別」とか「なんであんなクソが上位に」とか言い出す人たちがいるわけで。

あのさー。
もう今回丁寧語とか面倒だわ。

終わってからそんなこと言うぐらいならそもそも参加すんなよ。
いやまぁ500位台でギリギリ落ちたとかならそりゃあ悔しいだろうし言いたくなるのもわかるからそのへんの人たちは一応置いとくとして。
投票期間10日間で15票とかの人たちは一体何を考えて参加したのかと。ソロだとしてもTwitterとFacebookとGoogle+のアカウント作って毎日投票すれば自分だけで30票じゃん。バンドならメンバーだけで100票前後は確実に入る。
さらに言えば一次審査が人気投票だってのは最初からアナウンスされてるんだから、お客さんが1人もいないような人に勝算がゼロなことはもともと明らかだし。
っつーかもっと言えば、審査員の立場からしたら500組も真面目に試聴するのって一体どんだけの手間と負担だと思ってんだ。

ガチで出場目指してるわけじゃなく宣伝の一環として登録した人も多いだろうけど、それにしたってせっかく宣伝のために登録したのにその登録したことを宣伝しないんじゃあからさまに行動が矛盾してるだろうと。
もちろんフォロワー/フレンドのタイムラインを荒らして嫌われたくないからゴリゴリの宣伝したくないって気持ちも分かる。でもだとしたら、打つべき手、考えるべきことは宣伝しないことじゃなくて「どうしたら嫌われずに宣伝できるか」なわけよ。
まぁやり方関係なく宣伝ってだけで露骨に嫌がる人たちは少なからずいるし、そういう人たちにdisられるのはもう諦めるしかない。そうせざるを得ないシステムがおかしいと言うなら、そのシステムにわざわざ参加することこそおかしいんだよ。
参加して負けてから文句を言うんじゃなくて、参加せずに「こんなシステムじゃやる気になんねぇよクソが」ってみんなで運営にメールでも送ればいいんだよ。参加者いなくて盛り上がらなくなったら困るのは運営なんだから。

ここ大事だからもう一度言うわ。

参加者が集まらない、盛り上がらないのが運営にとって一番困る。
だから運営に抵抗したいなら、参加しないのが最善。
理想は、参加者が集まらない中、運営へのdisばかりが各種SNSで超盛り上がってること。
それで少ない参加者の中からゴミみたいなバンドが勝ったっていいじゃん。どうせそんなの信者と友達しか観に行かないし参加者が少なければ知名度も上がらないんだから運営以外誰も困らない。

本当に気にくわないなら潰しちゃえばいいんだよ。
でもそうしないってことは結局、文句言ってる連中ってのは「夢を与えてくれる企画自体は潰れて欲しくない、でも『人気のない自分を勝たせてくれる』システムになって欲しい」ってことだろ? アホすぎて耳から鼻血出るわ。

で、現在のシステムで勝ち上がった人たちってのはその宣伝のリスクやデメリットも当然のものとして受け入れてるからこそ勝ち上がれたわけ。あの仕組みが全面的に良いものだと思って参加してる人なんてたぶん1人もいないよ。それこそ運営も含めてね。
いわゆる大人の事情も含めて多種多様千差万別の思想信条価値観利害関係を持った人間が集まって一つのイベントを作ってるんだから、その誰にとっても納得のいく完璧なシステムなんて作れるはずがないんだよ。そんなんもし出来るならとっくに世界平和が訪れとるわ。だから参加者に出来ることは、そういうものだと割り切った上で、その仕組みの中で最善を尽くすことだけ。
何度でも言うけどそれが嫌なら参加しなきゃいい。

んで実はこっからが重要なんだけど。
あのね、ロックだろうがJpopだろうがHipHopだろうがエレクトロニカだろうが、細かいジャンル問わず「売れる(支持を集める)ことを一つの指標としてやってる音楽」ってのは全部広義では「ポップミュージック」なの。大衆音楽なの。
なぜかと言うと前回のブログでちらっと書いたように、作品評価のためにはある程度共通の文脈、バックグラウンドが必要で、だとすると音楽の質だけで大衆に評価されるのは不可能なわけ。すなわち本当に純粋に音楽の質だけで評価されてそれが支持を集めるためには、その支持する人全てが古今東西あらゆる音楽に精通している、少なくともその作品を作った人と同等以上に理解している必要があるから。そしてもちろんそんな人間はほとんど(場合によっては全く)存在しない。仮にいたとしてもそれこそ「分かる奴にしか分からない」のであって、バックグラウンドも定かではない不特定多数に対し評価を問うならばその時点で既にポップミュージックとしての呪縛から逃れられないんだよ。
端的に言うと、ポップミュージックにおいて音楽の良し悪しなんて二次的なものに過ぎない。

音楽の良し悪しじゃないならポップミュージックの評価軸って何なのさ?って思うよね?
さっさと答えを言うと、ポップミュージックの目的は「ポップカルチャーのアップデートを音楽によって行うこと」であって、良い音楽を作ることじゃない。ただ一方で、そのアップデートを担うにあたって「音楽が優れているほうが望ましい」わけだ。音楽そのものによって喜ばれたほうが当然、その価値観の拡散には有利なんだから。
これは逆に言うと、アップデートを試みられた価値観自体に大きな魅力があれば、音楽そのものが大したことなくても拡散し得るってこと。こう考えればいまだに地下アイドルもボカロ(歌い手含む)も理解出来ない人たちにも通じるかな? まぁ僕は音楽的にも大したもんだと思ってるけど。同時にこれが、重複してるかもだけど、音楽の力だけで勝とうとしてる人たちがポップのフィールドで負け続ける理由なわけ。音楽「だけ」が良くてもポップミュージックとしては通用しないんだよ。

ここでサマソニの件に還って、宣伝しても票が集まらなかった人たちっていうのは、仮に音楽が素晴らしかったとしても「ポップカルチャーのアップデートに影響を与えない音楽」と判断されたってわけ。意識的にしろ無意識的にしろね。
だから音楽の力「だけ」で勝負したい人たちはとっととポップミュージックのフィールドから退場したらいい。それが嫌なら、自分の音楽が「ポップカルチャーの何をアップデートし得るのか」を考えてくれ。

もちろん「ポップカルチャー」としての評価軸と「音楽」としての評価軸の二つがあって、その事に多くの人が気づいていないこと、さらにオーディエンスの多くは前者で評価し、しかしミュージシャンの多くは後者での評価を望んでいることは不幸な現象だと思うよ。
でも現実にそうなんだからそれを踏まえてやるしかないじゃん。
あくまでポップカルチャーのフィールドで勝負したいのであれば、せめてその「アップデート」が「ダウングレード」にならないよう努力するしかないんだよ。

以上ですわ。

次回はちゃんと前回の話の続きをやります。

個性にまつわるあれこれ

唐突ですが僕は、生まれ持っての個性というものをほとんど信用していません。

それが存在しないとまで言うつもりはありませんが、表現活動においていわゆる個性と呼ばれるものがプラスに働くことはごく稀だという印象なのです。また個性というものについて、世間一般で言われる解釈についても多いに疑問があります。

まず基本的に僕は「他人が持っていないものを出す」「他人がやっていないことをやる」というのが個性の表現であるとは思いません。何故ならそれらは「他人が知らなかったことを知っている」「他人が避けてきたことをやる」がほとんどで、たいていの場合は単に勉強量の問題であったり、モラルハザードを起こすことによる話題作りに過ぎないからです。

そもそも似たような環境に生まれ、同じ音楽や漫画やドラマを鑑賞し同じ内容の勉強をして同じ遊びをし同じサービスでコミュニケーションを取り同調圧力の中で育ちながら、いざ表現の場に立った時に突然「もっと自分ならではのものを出せ!」と言われても無理があると思います。

さらに根本的な障害があります。もしその表現が本当に他の誰も持っていない100%オリジナルだとするなら、そこには表現者と鑑賞者に共通のバックグラウンドが全く存在しないことになります。存在するならそれは共通のものから(無意識的であっても)影響を受けている以上、既に100%のオリジナルとは呼べないからです。
例えば宇宙人が一人あなたの前にやってきて彼にとっての芸術作品を表現したとしましょう。もちろん言語を含め一切コミュニケーションの手段は存在しません。すると当然、あなたにとっては表現の良し悪しどころか、まずそれが作品であることすら判断のしようがないわけです。
それでもなお好悪の感情を抱くことは出来るかもしれませんが、一切の文脈やバックグラウンドを抜きにプリミティブな好悪のみで判断するのが作品評価のスタンダードであるとするならば、そもそも作品に個性の有無を問うことが不当であるし、また評論家などという職業が成立するはずもありません。

つまり表現活動というものを、単なる好悪を超えて鑑賞するためにはある程度の共通認識を必要とする以上、それが完全なオリジナルであることは原理的に不可能です。
ならばそれを鑑賞するための文脈や方法論から自分で作ってしまえばいい、という考え方も当然出てくるわけですが、そうなると表現そのものより文脈の完成度や解釈の大胆さのほうが評価の対象になってしまうという齟齬が生じ、また鑑賞するためのハードルが劇的に上がる(何しろ作品や作家ごとにそのバックグラウンドについて勉強しなければならない)ため、大衆文化としては成り立たない、専門家のためだけのものとなるわけです。このあたりは現代アートについて多少の知識がある方ならすんなり理解できるのではないでしょうか。

というわけで、純度の高すぎるオリジナリティというのはむしろ表現活動とその鑑賞を(少なくとも大衆文化において)阻害するものであるならば、個性的な(と評価される)表現とは「鑑賞者の理解あるいは共感を前提としつつ、その予測の範囲を超えるもの」という極めて難易度の高いものになるでしょう。またこれは同時に冒頭で「個性なるものがプラスに働くことは稀」と述べた理由でもあります。

すると個性とは(もちろん生まれ持った何かでそれが出来るなら文句はないのですが)、いかに鑑賞者の予測を超えるかという知性の問題となり、またそのためには不特定多数の鑑賞者を理解、あるいは最低限そのための努力をする必要がある以上、ターゲティングやマーケティングといったビジネス論や統計の問題になってしまいます。

みたいなことを言っていると誤解を招きそうですが、僕は個性の表現のためにビジネスの勉強をしろなどと言いたいわけではなく、少なくとも日本では、表現活動において個性を第一義に置くこと自体がナンセンスだと言いたいのです。

というのも、冒頭のほうで述べたように同調圧力の中で育つ日本人においては、仮に生まれ持った個性とやらがあったとしてもその大部分を成長過程で失うことを宿命づけられているからです(日本でなくとも、社会生活を営む以上ある程度それは不可避でしょう)。またそれに抵抗する人たちもしばしば見かけますが、まさに今抵抗と書いた通り、自然なままで個性を残すというよりは積極的に誇張し、言ってしまえばむしろ不自然さを強く感じる過剰にエキセントリックな表現や、下手すると単なる我が儘でしかないことのほうが圧倒的に多いよう見受けられます。そしていずれにしても人為が加わるなら、それを生まれ持った個性と呼ぶのは無理があると僕は考えています。

すると生まれ持った個性による優れた表現というものがあるとするなら、それは「抵抗ではなく社会生活の中で自然に失われるに任せながらなお残ったものによる、しかも鑑賞者に共感を得ながらその想像を超えるもの」ということになります。そういう表現が存在しないとは言いませんが、「自分はそういうものを作っている」と自信を持って言える人はほとんどいないのではないでしょうか。もちろん僕はそんな大それたことは言えません。

なお「そう言える人だけが表現活動に携わるべきだ」という意見もあるかもしれませんが、大衆文化の大衆文化たる所以は大衆が表現とその鑑賞の両方に携われることにあると考えているので僕は賛同しません。

とはいえ、誰もが同じ表現ばかりするようでは面白くないのも事実です。なので次回は大衆文化であることを前提に、生まれ持った個性でもなく、過剰さによるものでもなく、いかにして表現に「違い≒個性とみなされるもの」を生み出していくかについて考えたいと思います。

なお「声がものすごく特徴的である」とか「指がめちゃくちゃに長くて他人に押さえられないコードを使える」とか身体能力に基づくものは、個性というより才能の問題と捉えているのでまた別の機会に述べようと思っています。悪しからず。