ライブハウスのプライド(4)

このシリーズも4回目になりました。
正直なところ言いたいことの大部分は1回目で言ってしまったのですがもうちょっと続けてみます。

さて前回、料理店の例え話の最後、いくつかの選択肢が出てきました。
一つは「客寄せなど放棄して、最高の料理を出すことだけに専念する」
次に「少ないながらも常連客はいるのだから、現状のまま細々とやっていく」
そして三つめ、書きませんでしたが皆さん見当は付くと思います。
つまり作業コスト、従業員の教育コストの増加を承知で「接客サービスの質を上げる」です。

上記の選択肢をライブハウスに置き換えてみましょう。
一つめは「こだわり抜いた機材と腕のいいPAスタッフの手で素晴らしい音質のライブが観れるものの、店内は汚く、チケットは高く、従業員の態度は悪く、フードメニューも無い」ハコです。
二つめは「チケットは若干安く学割もあり、ホームページの視聴コンテンツが充実し、フードメニューも充実しているものの、機材の質、PAの腕は若干落ち、店内は汚く、従業員の態度は悪い」ハコです。
三つめは「チケットは若干安く学割もあり、ホームページの視聴コンテンツが充実し、フードメニューも充実しており、店員は親切で店内には清潔感があるものの、機材の質、PAの腕はさらに落ちる」ハコです。

もちろん四つめの選択肢として「こだわり抜いた機材と腕のいいPAスタッフの手で素晴らしい音質のライブを観ることができ、チケットは安く学割もあり、ホームページの視聴コンテンツが充実し、再入場も自由でフードメニューも充実している上に店員は親切で店内には清潔感がある」ハコというのも考えられますが、これは少なくとも首都圏ではテナント料の関係で不可能だと思います。莫大な資産の持ち主が道楽でやるというならともかく。

参考までに、今年オープンした「ヒソミネ」というハコがあるのですが、「清潔感のある店作りおよびUst配信やフードなど各種サービスを充実させる一方、キャパは5~70人程度の狭さでいい」というコンセプトにも関わらず、高いテナント料のために都内でオープンすることを諦めた経緯があるそうです。

というわけで、全てを理想通りにはなかなか出来ないのですから何かしら犠牲にせざるを得ません。この「ヒソミネ」の場合は「都内で営業すること」と「店の大きさ」を犠牲にしたわけです。もっともこのハコの場合、大きさについては「100人キャパの必要なバンドはそんなにたくさんいない」という判断を以てあえて狭い場所を選んだとも聞いているので、その点に関しては必ずしも犠牲にしたとは言えない面もありますが。

話を戻し、僕の主張する選択肢はもちろん三つ目となります。
僕もバンドをやっているので、そりゃあ良い機材、良い音質でライブをやりたいと思います。しかし「ライブは観てみないと分からない」のだから、「どうしたら観に来てくれるか」を考えなければならないし、お客さんに「そのライブを観てみたい」と思ってもらわなければ始まらないし、そして観てもらった後「またここでライブを観たい」と思ってもらえなければ困ります。

お客さんに「このハコ感じ悪いからもう来たくない」と言われたなら、出演者が頑張って呼んだお客さんに「少なくない金と時間を使わせた上に不愉快な思いをさせた」ことになります。楽しんでもらいたくて呼んだ以上、それは何よりも避けなければいけないはずです。

ならば「ライブハウスの客はバンド(出演者)じゃない、バンドが連れてきたお客さんだ」という認識を持つべきで、当然ハコのスタッフには「接客業としての意識」が必要になるわけです。
「ビールが不味い」と言われたならせめてサーバーの洗浄ぐらい毎日やって欲しいのです。
ドリンクの注文を受けたら「ありがとうございます」の一言ぐらい言って欲しいのです。
実際のところ「ライブハウスのプライド(2)」の例に出て来た飲食店のように埃が積み上がっているハコは滅多にないでしょうが、来店したお客さんに、雰囲気の段階で「なんだか薄汚いところだなぁ」と思われてしまったら同じ事です。ちゃんと掃除されているだけでは不充分で、清潔感があるかどうかが問題なのです。
それとも「そんなのはライブハウスの役割じゃない」のでしょうか。ではお客さんに面と向かって「音質は最高なのだからその他の不備については我慢してくれ」と言えるのでしょうか。

ところで「ライブハウスの役割」とは何でしょう?
或いは「ライブハウスでなければいけない理由」、別の言い方をするなら、ライブハウスとはどのような意味で「特別な場所」なのでしょう?

1・ヒットチャートに現れない、けれど凄い音楽やライブショウを観ることの出来る場所。
2・家でCDを聴いたりDVDを観たりするのとは違う、迫力のある生演奏を味わえる場所。
3・それらに特別な価値を見出す人々が集まる場所。
といったところでしょうか。
なるほど否定出来ません。僕自身なんだかんだ言って、ライブハウスが嫌いなわけではありません。だからこそ「本当にこのままで良いと思ってるの?」というのが本心です。

僕が問題にしているのは「ライブハウスが特別な場所であり続けるために、何が必要か」についての見解、そのハコ側の視点とお客さん側の視点の相違についてです。
僕は先に書いた通り「接客業としての意識を持って欲しい」と思っています。何故なら、まず上記1と2については結局のところ出演者の責任で、そのためにハコが出来ることは限られているからです。
機材がどうの、PAの腕がどうのといったところでそもそも出演者の力量/パフォーマンスが低ければどうにもならないのですから。
一方3について、集まった人々が「そのハコ」を気に入ってくれるかどうかは、そのハコの居心地が良いかどうかが問題です。集まったお客さんが「またこのハコでライブを観たい」と思わなければ、他でもない「そのハコ」の存在する意味がありません。
「同じイベント内容ならどこでもいい」と思われたなら、そのハコの存在意義はないのです。

しかし残念ながら多くのハコのスタッフたちは「ライブハウスは特別な場所なのだから、敷居が高くなければならない」と考えています。ハコ側のみならず、ときには集客に悩むバンドマンですらそう考える人たちがいます。
これには歴史的経緯が関係しているので少し複雑ですが、次回はその件について出来るだけ簡単に解説したいと思います。

ライブハウスのプライド(3)

さて前回はライブハウスを料理店に譬えた長い話をしました。

お分かりの通り、料理は出演者です。初心者の頃から手塩にかけて育てたバンド、或いは噂を聞いて試聴した後粘り強い交渉によって出演に至った実力者、そういった出演者たちを集め、音楽性や活動方針などなど、何かしらの基準に沿ってこだわり抜いたブッキングです。
その他店内のディティールや、店主の考え方については言うまでもないでしょう。

今回は建設的な話をしようと思うので、この料理店の話を題材に改善点を考えていきます。

まず料理は最高です。それ自体としては文句のつけようもありません。しかし最高であるがゆえにコストもかかってしまいます。考えて欲しいのは、多少の妥協をすることでコストを下げたほうが、お客さんにとっての敷居も下がるかもしれないということです。ランチ¥2000が¥1000だったらフラッとやってくる人が増えるかもしれません。最低の接客でも割安で美味しいものが食べられるなら常連になってくれるかもしれません。
「それで料理の質が下がったら本末転倒だ」と思うでしょうか。気持ちは分かりますが、本当にそうでしょうか。せっかく腕を磨いて店を出し、毎日地味な下準備と研究を重ねながらその腕を奮う機会がないこと、それこそ本末転倒ではないでしょうか。
「料理は食べてみないと分からない」と思うなら、なおさら「どうしたら食べに来てくれるか」を考えなければならないはずです。その料理を食べて欲しいのなら、まずお客さんに「その料理を食べてみたい」と思ってもらわなければ始まらないのです。

すると店頭についても考え直す必要があります。看板も「ランチやってます」ではなく「本日のランチは○○です」、さらにその○○についてある程度の詳細を書くべきでしょう。例えば単に「冷製パスタ」と書いてあるより「季節の野菜たっぷり 冷製トマトソースのカッペリーニ・ジェノベーゼソース和え」とでも書いてあったほうが興味は持たれやすいはずです。しかしあまり詳細に書きすぎても却って読みづらくなる面もあります。

そこでホームページの出番です。
そのメニューがオススメだというなら、食欲をそそるよう完璧に盛り付けた写真とともに、その調理方法や食材へのこだわりについて書くことも出来ます。多少長い文になっても店頭で読むほどのストレスは感じさせないでしょう。コース料理の写真をスライドショー形式で見せるムービーを作ってもいいかもしれません。そしてそのURLを看板に付記するなり、QRコードを張り紙することだって出来ます。

それでもすぐにお客さんが増えるとは限りません。むしろそんな簡単にはいかないことのほうが多いでしょう。
ならば店員の手は空いているのですから、店頭、或いは遠くなければ駅前など人通りの多いところでビラ配りをしてみたらどうでしょう。そこですぐ来店することはなくとも、読んで興味を持てば後々来てくれるかもしれません。
ただビラを配っても受け取ってくれないというなら、ソフトドリンクなりハウスワインなりコストのさほどかからない範囲でサービス券を付ければ多少は受け取ってくれる人も増えると思います。
また店頭に試食コーナーを設ける手もあります。むしろ「食べてみないと分からない」ならそれこそ何よりも必要でしょう。いずれお客さんが来なくて食材を廃棄するぐらいなら後々の集客へ向けてサービスしたほうがマシです。

再度例え話に戻ってみます。
試行錯誤を重ね、地道な宣伝努力の甲斐あって来店数は少しずつ増えてきました。値下げに伴い思うような食材を使えないストレスはありますが、なにしろ腕はいいのですから同価格帯で少しでも美味しいものを食べたい人たちには支持されます。リピーターも僅かながら増えてきました。
しかしそれでも割合としては、満足そうに帰りながら二度と来てくれない人たちのほうが圧倒的に多いようです。
あなたはリピーターの一人に尋ねてみましたが、納得のいく回答は得られません。
「なんでだろうね? 美味いのに。この値段でこの味なら文句ないよ」そんな調子です。
もちろん来てくれるお客さんはわざわざ面と向かって店にケチを付けたりはしません。下手にダメ出しをして悪印象を与えたくないからです。
そんな印象をなんとなく感じ取ったあなたはアンケートを取ることにしました。
料理については高評価がずらりと並びました。
一方で、自身を含む店員の接客態度、清掃状態や店内の雰囲気などには辛辣な意見が並んでいます。簡単にまとめると「料理は文句なしだけれども、人を相手にサービスする意識は皆無。二度と来たくない」といったところです。
あなたはショックを受けます。「ここは料理店なのだから、最高の料理を出すことこそサービスではないのか」と。その料理ですら自分を曲げてコストダウンを図ったのに、それでもまだ足りないのか、と。
あなたは選択を迫られます。
いっそのこと客寄せなど放棄して、以前のように最高の料理を出すことだけに専念しようか。
それとも少ないながらも常連客はいるのだから、現状のまま細々とやっていこうか。
それとも。

続きます。

ライブハウスのプライド(2)

前回「そのハコがどんなところなのかを可視化する努力をしたほうがいいのではないか」というところで話を区切りました。

ハコの言い分としては「そういうことはホームページで説明しているからそっち読んでくれ」ということなのかもしれませんが、そもそも興味のないものに対してわざわざホームページを見にいく酔狂な人は滅多にいません。

ホームページにしても内装の写真ぐらいアップしているでしょうが、「ライブ」を商品とするライブハウスでただの内装写真を何枚載せたところでお客さんへのアピールにはなっていません。またどのハコのページを見ても出演者側の料金体系がどうとか機材が何だとかの説明ばかりで、お客さんを対象としたコンテンツはスケジュールと地図ぐらいしか載せていないものがほとんどです。

そのスケジュールを見ても店頭立て看板と同様、出演者名の羅列と料金とスタート時間しか書いていない場合が多く、ハコのイチ押しらしいピックアップイベントですら前述のものにただ出演者の写真を加えただけ、というものもよくあります。本当にイチ押しだというならイベントの趣旨に加え各出演者の動画や試聴リンク、せめてホームページへのリンクぐらい貼ってあげればいいのにと僕は思うのですが。地図にしても道案内の記述をしている親切なケースもありますが、Googlemapをそのまま貼り付けただけのものも珍しくありません。一般の、バンドマン以外のお客さんに対してハコのファンを増やそうという意図を持たないのがライブハウス経営のスタンダードということなのでしょうか。

それとも「いや、ハコのお客さんは出演者だよ。出演者のお客さんは、出演者自身が自分で集めてくれ」ということなのでしょうか。もちろん出演者自身にお客さんが付いていなければ先は無いのですが、しかしその出演者の頑張って集めたお客さんにとって「良いライブをやるための空間=ライブハウス」が不愉快なものであっては困るわけです。

また飲食店に例えてみましょう。
あなたの料理は最高です。味にも調理手法にも盛りつけにもこだわった数々の創作料理を生み出しました。料理を映えさせる食器選びにも余念はありません。もしミシュランの調査員が来たら3つ星が付いても不思議でないという自負があります。ただ店外には店名と「ランチ¥2000、ディナー¥3500~」としか書かれていない看板があるのみです。ランチで¥2000は高めですが質とコストを考えればこの値段もやむを得ません。
一応ホームページを作ってみました。コンテンツとして店内写真と地図と電話番号、それとオススメのメニューの名前を幾つか羅列してあります。それがどんな料理であるかなんて解説しません。料理は食べてナンボなので言葉で幾ら説明しても意味がないと思ったからです。
どんな経緯があってか分かりませんが、たまにお客さんがやってきます。それらのお客さんから口コミで来店する人もいるかもしれません – 何しろ料理は最高なのですから。
しかし店内の隅々には埃が積み上がり、テーブルには食べかすの染みが付いたままです。店員は気怠そうに突っ立ったまま席案内もしませんがあなたはそれで構わないと思っています。何故ならあなたには信念があるからです。すなわち料理人は料理で勝負するのが筋なのだから、客受けを狙った小賢しいサービスなどやるべきではない、ということです。
お客さんは適当に席を選んで座りました。もちろん上着掛けや荷物カゴなんて用意していません。さすがにメニューはあります。商品名を見てもそれがどんな料理なのかお客さんには理解出来ませんが、その必要もないとあなたは思っています。なぜなら料理は食べてナンボ以下ry。
お客さんは、とりあえず来たからには、といった風情で注文しましたが自分が何を注文したのかも分かっていない様子です。だんだん不機嫌になっているのが口調や佇まいから見てとれますがあなたは気にしません。一方お客さんの注文を聞いたあなたは、その時ちょうどドライアイが気になって目薬を差していたので聞こえなかったフリをします。手が空いたところで改めて注文を受けますが、あなたの態度を見たお客さんはさらに機嫌を損ねたようです。
その様子を見てあなたも不愉快になります。「ここは料理店なんだから実際に食ってみてから文句言えや!」と思います。同時に「俺の料理でその不機嫌面ひっくり返してやる」と考えます。無理解な客のようですがこちらにも料理人としてのプライドがあるので、料理の質を以て客を黙らせるのが筋だと思っているからです。
そしてお客さんは、いざ出て来た料理を口にして驚きます。唖然としながら、さっきまでの不機嫌さが嘘のように黙々と美味しそうに食べています。あなたはそれを見て上機嫌です。「それ見たことか」と得意満面です。あなたのプライドは守られ、自信を深めます。「やはり俺の料理は間違ってない」と。
ところがそのお客さんは二度と来店しませんでした。もしかしたら仕事の出張の際たまたま立ち寄っただけで、簡単に来れるところに住んでいないのかもしれません。
ただ気がかりなのは、満足そうに帰っていったお客さんの誰一人として、二度とは来なかったということです。お客さんの一人もいない店内をぼんやり眺めながら、あなたは呟きます。
「俺の料理は最高なのに、どうして誰もリピーターにならないんだろう」

これがライブハウスのプライドです。
ここで「料理店とライブハウスは全然違う業種なんだから同列に語ることが間違ってる」とか言う人は、まぁ、筋金入りの馬鹿なので放っておきましょう。きっと脳味噌の代わりにゲロか何かが詰まっているのでしょうから、それはもう勝手に潰れろとしか言いようがないです。

とはいえ今回のシリーズはダメ出しをすること自体が目的ではないのでまだ続きます。
今後はもっと建設的な話をするつもりです。

ライブハウスのプライド

ノルマの是非やライブハウス自身による集客努力についてしばしば議論されるようになり、また集客のための企業努力をするハコもちらほら現れ始めた昨今ですが、まだ業界全体の空気としては「何とかして時代の流れに抗ってやろう」みたいなハコも多いですし、また努力するつもりはあっても実際どこから手を付けていいのか分からないというハコも多いのではないか、という気もします。

なので今回から何回かに分けて、お客さんや出演者の立場で「どんなライブハウスなら興味を持つか」を考えてみます。

まず店の外観から考えたほうが良いように思います。最寄駅の駅名+店名の看板を立てただけで人が集まるなんてことは考えられません。この段階で分かるのは「そこがライブハウスである」ことだけです。店の看板と別に、その日のイベント名と出演者を立て看板に書いているハコは多いですが、それでもせいぜい「そういう名前の人たちが出演している」ことしか分かりません。

飲食店に例えて考えてみましょう。「ランチやってます」とだけ書かれた看板を見て、どんな料理があるのか全く不明なまま入店するお客さんは相当なチャレンジャーです。それでもまだ飲食店であれば、どうしても腹が減りすぎて何でもいいから食べたいけど他に店が見当たらない、という状況でお客さんがやってくることはあるかもしれません。しかし音楽ライブなんて、無くても即困るわけでもない趣味の分野でそのような看板を出していることは、普通に考えて「フラッとやってくるお客さんはいない」という前提で商売していることになります。

もちろん大音量を鳴らすライブハウスで外から内装や雰囲気が分かるようにするのは防音の関係で極めて難しいですし、またハコで扱うジャンルを完全に一本化してしまうのもリスキーなので、外観であまりイメージを固定させたくないという判断も分からないわけではありません。

ただせめてその日のイベントコンセプトであるとか、出演者それぞれがどんな音楽、或いはパフォーマンスをする人たちなのかぐらいの情報は載せておいて欲しいと思います。それで即お客さんがやってくるとは思いませんが、少なくとも通りかかった人が看板を見たときに「へぇ、ここはこういうイベントやる店なんだ」または「こういう人たちが出てるんだ」という印象を与えることは出来ます。

するとその人たちが知人、友人のバンドマンからライブに誘われた際には「そういやあの店って○○なイベントやってたな」という記憶を引っ張り出して、自分の持った印象とその誘われたライブを結びつけて考えることになります。つまり興味が強くなるわけです。もちろんそこで趣味が合わないと思ったら行かないでしょうが、行ってみてやはり趣味が合わなかったら次はないのだから同じことです。

また昔から不思議に思っているのですが、店内バーカウンターあたりでライブ映像を見れるようにモニターを用意しているハコは多いのに、それを店外、屋外は無理でもせめて受付で金を払う前の段階で見れるようにしないのは何故なのでしょう。音を出せないというならヘッドホンの一つや二つ用意すれば済むことではないかと。

テナントの構造上それが出来ない場合も多々あるのは承知してますが、それならUstやニコ生の配信環境を整えてどこでも見れるようにすればいいと思います。看板に「配信やってます」と書いてURLを併記することも出来るわけです。

まぁぶっちゃけスマホかタブレット、それとWi-Fiルータを持っていれば誰でも配信は出来るのですから「やりたい奴は自分でやれ」というのがハコ側の言い分かもしれませんが、しかし僕としては「何で出演者に集客努力を丸投げするの?」という立場をとっているのでそのぐらいはハコに用意して欲しいと思います。それで画質/音質が気にくわないという出演者がいるなら「じゃあバンドで良い機材揃えてください」と言うのは全く構わないのですが。一方で、音響や照明の設備がハコの売りになるのだとしたら「高音質・高画質で配信出来ます!」というのも立派な売りになるのではないでしょうか。

それとも「動画の生配信をやるとそれで満足しちゃって実際に足を運ぶ人が減る」とでも考えているのでしょうか。少なくとも僕は海外フェスの配信映像など観て良いライブだと思ったら「来日したらぜひ足を運びたい」と思うのですが、まぁ僕が少数派である可能性もあるわけですからそれは考え方の違いでもいいとしましょう。

ただいずれにせよ、中で何が行われているか分からないのにお客さんが「そのライブハウス」に興味を持ってくれるわけはないのですから、まずライブハウスがどういうところなのか、その店がどういうところなのかを可視化する努力をしたほうがいいのではないか、というところで次回に続きます。

個性にまつわるあれこれ(3)

予告通り「センス」の話です。
「センスが良い/悪い」とか「あいつは○○のセンスがある/ない」とかいった使い方で褒めたり貶したりするときによく使われる言葉ですね。ただあらかじめ言っておくと僕はこの言葉を安易に使うのが好きではありません。理由は、それが相手の反論を封じるための便利な言い訳として使われている場合がほとんどだからです。

意味を調べてみました。
「センス – 物事の微妙な感じや機微を感じとる能力・判断力。感覚。」(大辞林より)
なお語源はラテン語の「sentīre」という単語で、「感じる」という意味だそうです。

そう定義すると、
「これセンスいいよね」は「これ感じいいよね」となります。つまり「私これ好き」という個人的な好感について同意を求めているに過ぎません。
意地悪く言うなら「これを良いと感じる私の感じ方って素敵でしょ?」と言っていることになります。全く褒め言葉になっていないのです。貶す場合も同様で、「これセンス悪いよね」→「これ感じ悪いよね」→「これを悪いと感じる私の感じ方って正しいでしょ?」です。
いずれにしても本質的に「私を褒めて欲しい」ために使われる言葉であって、これが褒め/貶し言葉として普通に成り立っていることはいかにも日本的だなぁと残念に思うわけですが、結局ここで僕が何を言いたいかというと「センス」という言葉(或いは概念)をもって良し悪しを決めることは、自分の判断が常に普遍的で正しいということを前提としているため、他者との関係においてはほぼ役に立たないということです。

とまぁ偉そうに一席ぶってみたところで、僕にだって何かを見て「センスいいなぁ」と思うことはあるし、そういう感覚というか「センスのある/なし」というものの存在自体を否定するものではありません。ただそれが判断基準としてあくまで内的なものである以上、自分の表現を他者に問うにあたって「センス」を頼ることは「私が良いと感じて表現したものを多くの人もまた良いと感じるだろうと信じる」に留まってしまいます。
「それで何が悪いの?」と思う人も多いでしょうが、そのやり方は端的に言って宝くじを買うようなものです。それで実際に評価を得たところで「私が良いと感じて表現したものをたまたま多くの人が良いと感じた」わけですから、芸術的才能があったというよりは「運が良かった」と捉えたほうが妥当だと思います。また事実才能があって評価されたのだとしても、その才能に恵まれたこと自体「運が良かった」のですから。

それはさておき「センスがある」とはどういうことなのかと問われれば、「物事の微妙な感じや機微を感じとる能力・判断力」があるということですから、「思考をベースとしない洞察力に優れている」と言い換えることも出来ると思います。
ところで前回の話の中で「一部洞察力のある人を除いて~」というくだりを述べたように、「センス=思考をベースにしない洞察力」に優れている人は、その恵まれた洞察力によって思考のプロセスをショートカット出来るわけです。これがいわゆる「センスのある人」がよく言う「表現は思考じゃない、センスだ」の根拠になっていると思われます。

しかしそれは単なるショートカットであって「表現は思考じゃない」ということにはならず、ただセンスを用いて表現することに慣れている人たちが、馴染みのない方法論を否定しているに過ぎません。
先の論法を用いるなら「思考による表現をダメだと感じる私の感じ方って正しいでしょ?」です。もちろんその論拠に基づいて実際に優れた表現をしたときにはその表現自体が説得力をもたらしますが、ではそういった人たち全てが優れた表現を出来るかと言えば疑問が残りますし、またここには当然「そもそも誰にでも通用する優れた表現というものが存在するのか?」という問いも含まれます。そしてご存知の通り、現実には自称「センスのある」人たち同士でも「あいつはセンスがある/ない」みたいな話をするわけですから、やはりセンスという概念を作品評価、表現の良し悪しを語る上での客観的基準とすることは無理があると捉えるべきでしょう。

とは言っても、センスなるものに基づく評価がナンセンスであると断じたところで事実それを元に表現、作品作りをする人たちは大勢いるわけですから、いかにしてそれが表現の向上に寄与しているかも考えないわけにはいきません。正直「センスに自信のある人はそれで好きにやってくれ、そうでない人は頑張って思考を磨いてくれ」と言って終わりにしたいところなのですが、自称センスのある人たちの中にも現実にそう評価されない(単に一般的に評価されないという意味でなく、「センスがあると評価される人たち」にも評価されない)人たちがいるのでもう少し頑張りたいと思います。

では何故「センスがあると評価される人」と「センスがないのにあると勘違いしている(またはそう評価される)人」に分かれるのか、という点についてですが、おそらくその分かれ目は、まぁ皆さん予想していると思いますが「センスが『磨かれているか、いないか』」であると僕は考えます。磨くという言い方が出来る以上、当然それは後天的に向上しうるものです。言葉遊びをしているわけではなく、センスというものが生まれつき固定で死ぬまで磨かれもしなければ劣化もしない、などと考える人はさすがにいない…ですよね?
ともかく「センスがあると評価される人」の中に「センスを磨く努力」をしなかった人は滅多にいないはずです。逆に「センスがないのにあると勘違いしてる人」は、少なくとも僕の経験上では、その努力をほとんどしないケースが多いようです。
ではセンスを磨くための努力とは何でしょう?  おそらく多くの人は「センスが良いと感じる表現、作品に多く触れること、またそれが自分の血肉となるよう取り込んでいくこと」みたいなことを言うのではないでしょうか。つまり環境とインプットの取捨選択です。

ではここで前回の話にざっとでいいので戻ってみてください。
読んでの通り、センスを磨くための努力は、思考によって「違い」を生むための努力とほぼ同じです。というよりも、思考によるための努力の中にセンスを磨く努力が内包されているというべきでしょう。ただその努力の過程で、センスを頼る人は思考をショートカットして違いを生み、そうでない人は考察を重ねることで違いを生む、それだけのことだと僕は考えています。同じことを何度も繰り返し述べるようで申し訳ないですが。

さて先に述べた通り「センスを頼る人」の中で差が生まれてしまう場合のほとんどは「環境とインプットの取捨選択」という努力をする/しないによるものだと思うのですが、しかしその努力を同じぐらいにしてもなお差が生じる場合も多々あります。その理由を才能(それを全く否定するものではありませんが)という言葉で片付けるのは非常に楽でいいですが、僕としてはそんな曖昧かつ夢のないものに根拠を求めるより「最初に自発的な『環境とインプットの取捨選択』を行った時点で、既にセンスが磨かれているかどうか」、つまり生まれ持った才能ではなく、生まれ育った環境に求めたいと思います。この根拠は仮に才能の有無というものを認めたとしてもなお有効であるはずです。

さてセンスのある/なしを環境の問題、経験的領域によるものだとするなら、残念なことに生まれ育った環境、外的に与えられたインプットについて「センスのある/なし」を、最初の自発的な取捨選択を行った段階で判断することは事実上、出来ないということになります。言うなればその段階でセンスが磨かれているかどうか、「センスのある」環境で育ったかどうかは、運の問題です。
もちろん物心付いた頃からその環境が嫌いで、それを否定するようなインプットを選択し続けることでセンスを磨いた人、またその結果として磨かれたセンスを多くの人に評価される幸運な人もいるでしょう。「幸運な」というのは、その嫌ったもののほうが実は評価される「センスのある」環境であったことが後々明らかになる可能性が存在するからです。

しかしそうなると、生まれ育った環境の段階で不幸にも磨かれなかったセンス故に、自発的な選択においてもまた「センスの磨かれていないもの」を選び取ってしまう可能性も大いにあります。本人はセンスを磨いているつもりでも、実態としていつまでも磨かれない自分のセンスを愛でているに過ぎない場合があるわけです。センスを磨く努力をしてもなおセンスがないと評価される人というのは、才能よりむしろこのようなケースが多いのではないでしょうか。

さてそういう人は不運だったわけですが、しかし突破口はあります。センスという客観性のない基準を以て判断するから出口がないのであって、ならば客観的な物差しを用意すればいいことになります。つまり自分のセンスはとりあえず置いておいて、一般にセンスがあると評価されるもの、またセンスがあると評価されている人の評価するものをインプットし、そしてそれが評価される理由を考察すればいいわけです。当然それは自分のセンスが評価されない理由を考察することでもあります。

もし自分のセンスにおいてゴミのようにしか感じられない表現であっても、事実としてそれがあなた(別に僕でもいいですが)の表現より評価されているならば、それを表現した人はあなた(僕)よりセンスがあると一般に思われているのです。まずそれを認めるべきでしょう。それでもなおどうしても自分のほうがセンスがあると信じるのであれば、その立派なセンスによってゴミ(と自分が判断したもの)をアップグレードしてみせればいいのではないでしょうか。
そんなセンスのないことしたくない、一般にセンスがあると思われているほうが実際にはセンスがないのだ、などと強弁ところで、それを評価してくれる他者がいないのでは何の説得力もありません。何度も言いますが「これを良いと感じる私の感じ方って素敵でしょ?」では意味がないのです。
「時代が自分に追いついていない」とゴッホを気取るのは勝手ですが、僕としては「運が悪かった」で済ませることこそセンスのない判断であると思います。

また言うまでもなくこの方法論は「センスがあると評価されている人たち」においても有効です。幸いセンスをうまく磨いてこれた人たちであっても、そのアップデートを自らのセンスのみによって行うのは、やはり客観性がない以上せいぜい「当たりの多いくじを引き続ける」ようなものなのですから。

というわけで、表現に「違い」を生むにあたって思考は不可欠だと僕は考えます。センスが不要というのではなく、客観性のないセンス「のみ」を用いて表現にあたるのは危険だと言いたいのです。

この件は以上です。